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伝説のなかの安倍晴明①

伝説のなかの安倍晴明①

安倍晴明(菊池容斎・画、明治時代)

 

安倍晴明は陰陽道の神様として崇められている。清明を祀った神社は、清明の屋敷のあった京都の上京区をはじめ、大阪市阿倍野区、茨城県明野町など、日本各地にあり清明ゆかりの史跡と称するのも挙げていったら切りが無いほどだ。

安倍 晴明(あべ の せいめい/ はるあき/ はるあきら、延喜21年1月11日[1]921年2月21日〉 – 寛弘2年9月26日1005年10月31日〉)は、平安時代陰陽師。「晴明」を「せいめい」と読むことが多いが、これは音読みであり、本来の読み方は確定していない。鎌倉時代から明治時代初めまで陰陽寮を統括した安倍氏土御門家の祖。官位は従四位下播磨守

経歴[編集]

921年(延喜21年)に摂津国阿倍野(現・大阪市阿倍野区)に生まれたとされる。また、生地については、奈良県桜井市安倍とする伝承もある。幼少の頃については確かな記録がないが、陰陽師賀茂忠行保憲父子に陰陽道を学び、天文道を伝授されたという。加茂氏の門下生であり、のちに両家は二大陰陽家となる[5]

948年(天暦2年)大舎人。960年(天徳4年)40歳で天文得業生(陰陽寮に所属し天文博士から天文道を学ぶ学生の職)であった晴明は村上天皇に占いを命ぜられており、出世は遅れていたが占いの才能は既に貴族社会で認められていたことが伺える。50歳頃、天文博士に任ぜられる。貞元2年(977年)、保憲が没した頃から陰陽道内で頭角を現す。陰陽寮を束ねる陰陽頭に就任することは無かったが、位階はその頭よりも上位にあった[6]

979年(天元2年)、59歳の晴明は当時の皇太子師貞親王(後の花山天皇)の命で那智山天狗を封ずる儀式を行う。

このころから花山天皇の信頼を受けるようになったらしく、記録にしばしば晴明が占いや陰陽道の儀式を行った様子が見られるようになる。花山天皇の退位後は、一条天皇藤原道長の信頼を集めるようになったことが、道長の日記『御堂関白記』などの当時の貴族の日記から覗える。そのほか、『小右記』によると、正暦4年(993年)2月、一条天皇が急な病に伏せった折、晴明が禊(みそぎ)を奉仕したところ、たちまち病は回復したため正五位上に叙された。また、『御堂関白記』によると、寛弘元年(1004年)7月には深刻な干魃が続いたため晴明に雨乞いの五龍祭を行わせたところ雨が降り、一条天皇は晴明の力によるものと認め被物(かずけもの)を与えたことなどが記されている[7]

陰陽師として名声を極めた晴明は、天文道で培った計算能力をかわれて主計寮に異動し主計権助を務めた[8]。その後、左京権大夫穀倉院別当、播磨守などの官職を歴任し、位階従四位下に昇った。さらに晴明の2人の息子安倍吉昌安倍吉平が天文博士や陰陽助に任ぜられるなど、安倍氏は晴明一代の間に師である忠行の賀茂氏と並ぶ陰陽道の家としての地位を確立した。

 

死んだ後で神に祀られた歴史上の人物は何人も居るが、その大半は、いわゆる怨霊である。菅原道真や平将門のように、恨みを呑んで死んだ者が悪霊となって祟りをなしたため。
その霊を鎮めるため、祟を鎮める手段として、神に祀るというケースが圧倒的に多いのだ。生前に、社会的名声や成功を手に入れた者が、輝かしい事績を讃えられて神になったという例は、それほど多くない。それだけ、清明は傑出した存在だったということなのだろう。

 

単に優れた陰陽師というだけなら清明の他にもいくらでもいた。例えば、加茂保憲(かものやすのり)や加茂光栄(かものみつよし)などである。しかし、保憲や光栄は神様にならなかった。それなら、その違いはどこから来ているのか。まずは、華やかなエピソードを二、三紹介していこう。『今昔物語』、『宇治拾遺物語』などに次のような話が出ている。

 

清明を試そうとした僧のこと

昔、土御門大路(つちみかどおうじ)にある清明の家に、年老いた僧がやってきた。十歳ばかりの子供を二人連れていた。
清明が『あなたはどのようなお方ですか?』と尋ねたところ、『播磨国(はりまのくに)のものでございます。陰陽道を学びたいと思っております。
あなた様が、この道に、ことに優れていらっしゃるとお聞きしましたので、少しばかり学ばせていただこうと参上したのであります。』と答えた。

清明が思うには、この法師は並々ならぬ達人のようだ。私を試そうとやってきた者であろう。へたに見くびられてはまずいことになる。
この法師をすこしなぶってやろうと思った清明は、供の童子はきっと式神『陰陽師が使役する鬼神)にちがいない。
もし、そうであれば、取って隠してしまおう。と心に念じて、袖のうちで印を結び、ひそかに呪(じゅ)を唱えた。

そうしておいて、『早くおかえりなさい。あとで、よい日を選んで、学びたいとおっしゃることをお教えしましょう。』と言うと、法師は、『ああ、ありがたいことです。』と言って恭しい態度で立ち去った。
もう行ってしまったろうと思っていたのに、法師は足を止め、家のあちこちや車宿りなどを覗いてみてから、また清明のところに戻ってきて、『私が供に連れてきた童子が、二人共いなくなってしまいました。ふたりをお返しいただけないでしょうか』。
そこで清明が、『おかしなことをいうお坊様ですね。何故に、清明が人の供の者など取ったりするはずがあるのですか』と応じると、法師は、『ごもっともでございます。ですが、どうかお許しください。』と詫びた。

『どうであれ、あなたが人を試そうとして、式神などを使って来たのが気に障ったのです。他の人ならそのように試すのもよいでしょうが、この清明にどうしてそんなことをなさるのですか』と言って、何かを読むようにして、暫く経つった頃、外の方から童子が二人とも走ってきて、法師の前に姿を現した。

その時、法師が言うには、『あなたさまが、まったくたいしたお方だとお聞きして、ひとつ試してみようと思って参ったのでございます。それにしても、昔から、式神を使うのはたやすいことですが、人の使っているものを隠すなど、とてもできることではありません。今からは、あなたさまのお弟子になりましょう。』と自分の名札を清明に手渡した。

(『今昔物語』二十四・十六、『宇治拾遺物語』一二六)

 

清明、蔵人(くろうど)の少将(しょうしょう)の命を救う

ある時、清明が宮中に参内すると、今を時めく殿上人に行き会った。蔵人の少将という、まだ若く美しい貴公子だったのだが、車から降りて中に入ろうとしたところ、烏(からす)がこの人に糞を引っ掛けた。
清明はそれを見て、かわいそうに、世間にも受け折れられ、年も若く顔立ちも美しい人であるのに、式神に打たれたのか。この烏は式神に違いないあるまい、と思った。こんな運命に遭うのも、この少将の前世の報いだとでも言うのだろうか。

清明は気の毒に思って、少将のそばに歩み寄り、『天皇の御前に献上なさるのですか。偉そうに申し上げるようですが、どうして、ご参内などなさるのですか。殿は今夜をお過ごしになれないだろうとお見受け致しますよ。そういう運命であることが私にはわかってしまうのです。どうか、私に任せていただけませんか。何とか手をうってみましょう』と、一緒に車に乗り込んだ。

少将は震え上がって『何ということだろう。どうか、助けてください』と、清明に頼み込み、屋敷に帰っていった。甲の時(午後4時)頃のことであったので、そうこうしているうちに日も暮れた。

清明は少将をしっかりと抱いて身固めをし、また、一晩中眠りもせず、絶え間なく何事かを読み聞かせて加持祈祷をした。秋の夜長に、一心に加持を続けていると、明け方近くになって、戸を叩く音がした。
そこで人をやって尋ねさせると、少将の妻の姉妹にあたる蔵人の五位であった。
この男は同じ屋敷内の別のところに住んでいたのだが、舅(しゅうと)は少将ばかりをよい婿として大切にし、もうひとりの婿はことさらに軽んじていたため、それを妬(ねた)ましく思い、陰陽師を抱き込んで、式神を伏せたのだという。

さて、その少将は死ぬところであったのを、清明が見つけて、一晩中祈祷を続けていると、式神を伏せた陰陽師のもとから使いのものが来て、声高く、『とんでもない気の迷いから、ただ、依頼人の言葉に背くまいとして、守りの強かったお方に式神を伏せましたが、すでに、その式神は本人のところに返ってきて、たった今、自分が式神に打たれて死のうとしております。してはならないことをしてしまいました』と言う。

清明は『お聞きの通りです。昨夜、見つけて差し上げなかったら、このように死なれていたことでしょう』と言って、その使いに人をつけてやって、事情を聞かせると、『陰陽師はそのまま死にました』とのことだった。
式神を伏せさせた婿を、舅はすぐに追い出したそうだ。
少将は泣いて悦び、清明にはいくらお礼をしても足りないほどの悦びようだったという。この少将が誰とはわからないが、後には大納言にまでなったということだ。

(『宇治拾遺物語』一二六)

 

 

清明、蛙を殺す

ある時、清明が広澤の寛朝僧正(ひろともそうじょう)という人の防に参って、お話を伺っていると、若い公達(きんだち)や僧が一緒にいて、清明に物語などして、『あなたは式神をお使いになるということですが、たちどころに人を殺すこともできるのですか』と言う。
清明は、『たやすくは殺せますまい。力を入れれば殺せましょう』と言う。
『虫などであれば、少し力を入れれば、必ず殺すことができるでしょう。しかし、生き返らせる方法を知らないので、殺生の罪を犯すことになります。つまらないことですよ』と言っていると、庭から蝦蟇(がま)が五、六匹出てきて、池の方へのそのそ歩き出したので、公達は、『それなら、ひとつ、あれを殺してみてください』と言った。
清明は、『罪作りなお方ですね。ですが、私を試したいとおっしゃるなら』と、草の葉を摘み取って、物を読むようにしてから、蝦蟇の方へ投げつけた。
その草の葉が蝦蟇にかかったかと見ると、蝦蟇はまっ平らに潰れて死んでしまった。

たちまちこれを見て、顔色を失って恐れた。

 

この清明は、家の中に人がいないときは、式神を使っていたのだろうか。
人もいないのに、蔀(しとみ)が上がったり下がったりするすることがあったという。
また、門を締める人もいないのに、いつの間にか門が閉ざされていたことがあったともいう。

このように、不思議なことが多かったと語り伝えられている。
清明の孫は今、出仕しているが、並々ならぬ者だそうだ。

土御門の家も伝えられる通りの場所にある。その孫はごく最近まで、式神の音などを聞いていたという。
そのように、清明はやはりただ者ではなかったと語り伝えられているのである。

(『今昔物語』二四・一六、『宇治拾遺物語』一二七)

 

安倍晴明といえば、やはり一番有名なのは、式神を使ったことだろう。
『源平盛衰記』によれば、清明は十二神将を式神として使っていたが、妻がその顔を怖がったので、ふだんは一条戻橋の下に封じておき、用事のあるときだけ呼び出していたという。

一条戻橋で橋占いをすると、必ず式神が人に乗り移って、吉凶を告げたというから、清明亡き後も式神は橋の下に封じられたままになっていたのかも知れない。
ただ、蔵人の少将の話でもわかるように、式神を使いこなすには、相応の力量を備えている必要があった。
もし、呪いをかけようとした相手の方が、力が上だった場合、自分の式神が我が身に返ってきて、命を失う危険があったわけだ。

 

何しろ清明は『神様』なので、常に人の危難を救う役として登場し、清明のほうが他人を呪ったという話はない。しかし、蛇の道は蛇で、人を呪詛(じゅそ)から救うには、自分が呪詛の方法に通じていなければならないのだ。

 

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