氣の施術師だからこそわかる氣と心、健康的な人生を過ごしていくために大切なこと。少しずつお話しています。
陰陽道 天と人を結ぶ儀式

陰陽道 天と人を結ぶ儀式

北極星と北斗七星

陰陽道発祥の地である古代中国でも、天と地に対する神聖な崇拝儀礼が、頻繁に行われていました。
なぜなら、このような祭祀は、天子(地上の最高権力者 皇帝)のなすべき最高の行為とされていたからであります。

 

祭祀の際は、祭壇に犧牲(ぎせい)(赤毛の小牛)を供え、神官が祭文を読み、天子が敬虔(けいけん)な祈りを捧げた。
この祭祀は『封禪の儀』(ほうぜんのぎ)と呼ばれ、天子が天帝(宇宙の最高の神)とつながり、天帝の意思を地上で実現させることが目的であった。

天子は天帝の意思(天命)を体得する者として、呪術的に権威づけられ、地上での最高権力者を得ることを承認されるのです。

 

天子が天命を全うし善行すれば、天帝はこれを喜び天下泰平であるように見守られるが、天命に背き悪行すれば、天帝の怒りに触れ、さまざまな災いが地上に降りかかると考えられていました。

天子の祭祀はこれだけでは済まない。
次に、天子は四方を祀らなければならなかった。
四方とは、東西南北のことで、春には東方の神(青帝・せいてい)、夏には南方の神(赤帝・せきてい)、秋には西方の神(白帝・はくてい)、冬には北方の神(黒帝・こくてい)を祀ることを義務付けられていた。さらに続いて、天体も祀らなければならなかったのだ。

 

太陽を王宮で(日壇・にちだん)で、月を夜明(月壇・げつだん)で、星を幽栄(ゆうえい)(星壇・せいだん)という祭壇で祀らなければならなかった。

これらの祭祀は、天と地のあらゆる神々を敬うことで天変地異が起きたり、疫病が流行るのを防ぐために行われていたのだ。その他にも、山や川などの人間の生活に欠かせない自然の恵みを与えてくれるものに対しての感謝の気持ちを捧げる祭祀。または、人間の力の及ばない超自然的な力を持っている。

 

さまざまな神(百神)に対しても祭祀は頻繁に行われていた。
まさに、天子とは地上を統治する以前に、シャーマンとしての役割を果たさなければならない重責を持つ。
大変な立場にいた人だったのである。

 

 

陰陽道最高の奥義・泰山府君祭(たいざんふくんさい)

陰陽道の中でも、最高の奥義と言われるものに、泰山府君祭と呼ばれる祭祀がある。この祭祀の威力はものすごいもので、死にかかっている人間を延命したり、死んだ人間を再び生き返らすことができたという。

この祭祀を司ることが出来るものは、陰陽師の中でも限られており、かなりの呪術力を持つものでなければ行えなかったという。かの安倍晴明もこの祭祀を幾度となく行っている。

その恐るべき呪術力のエピソードが伝わっている。その中でも特に有名なエピソードが、『今昔物語』にある。

ある高僧が重病になった。弟子たちが必死に祈祷したものの、病は一向に回復する兆しを見せない。そこで弟子たちは安倍晴明のところに赴き、助命の祈祷を頼んだ。晴明が高僧をみたところ、病はかなり重く、助命の祈祷では済まないと見た。そこで泰山府君という特別な祭祀をすることが必要だと思い、この祭祀を行えば高僧の命は救われるが、ただしそれには条件があり、代わりに誰かの命を神に差し出さなければならないと弟子たちに説明した。

このような交換条件を容易に受け入れるほどの勇気を持つ弟子たちは、残念ながらいなかった。むしろ逆に高僧がいなくなれば、その地位や財産までも自分たちのものになると、考え始めてさえいた。
だが、その時、弟子の中でも一番知恵が足りないと仲間からバカにされていたひとりの弟子が、自分が身代わりになると申し出てきたのだ。
高僧は、その弟子の澄んだ心に打たれて泣いて喜んだ。晴明もその弟子を身代わりに立てて、さっそく祭祀を始めた。すると見る見るうちに、高僧の病状は快方に向かって行ったのだ。

しかし、なぜか身代わりの弟子には、なんら変化は見られない。
晴明は優しく微笑みながら身代わりになった弟子に言った。『あなたのお師匠様はもう安心ですよ。それにあなたも何も恐れることはありません。神様もあなたの師匠を思う気持ちに打たれて、ふたりとも生かすことにしたようです』

 

さて、このすごい効果のある泰山府君の神さまとは、いったいどのような神さまであろうか!?

泰山とは中国五岳のひとつ東嶽泰山(とうがくたいざん)の別称で、この山は昔から生命発祥の地、死霊のこもる山として民衆から崇敬されていた。泰山府君は道教でも神として崇められていた。
泰とは天と地が相交わってすべてのものを生み出す根源の力を意味しているのだ。このことから、全ての人の生命や寿命を司る力を持った山の神さまだということがわかる。

紀元前二百十九年には、不老長寿を願った秦の始皇帝も、泰山の山頂で自分の延命長寿の祈願をしている。また、泰山には不思議な伝承がある。
山頂には金の箱があり、中には数字が刻まれた短冊のようなものが入っていて、その数字は短冊を引いた人の寿命を示しているというものだ。
しばらく前に話題になったアガスティアの葉と同じような話だが、漢の武帝がその短冊を取ったとき数字は一八と刻まれていたが、短冊を逆さまにして八一と読んだので、長生きしたという逸話が残っている。

 

現実の泰山は、中国の山東省にある標高1524メートルの山だが、周囲には高い山も無く華北一帯では遠くからでも眺望できるという。中国五岳は、他に西嶽崋山(さいがくかざん)、南嶽衛山(なんごくえいざん)、北嶽恒山(ほくがくこうざん)、中嶽嵩山(ちゅうがくすうざん)があるが、これらの山の位置は周の時代末期(紀元前五〇〇~六〇〇年ごろ)に、東周にあった洛邑(らくゆう)という都を中心として、陰陽道の五行説にのっとって指定されたものである。

東極泰山だけが、なぜ特別視されたのかというと、東という方角は五行説では木を示しており、また東は日の出る方角で、季節では春を象徴している。この泰山から陰陽の気が動き出し、あらゆるものを生み出すと考えられたからだ。

 

 

北極星を信奉した陰陽師

陰陽師は、天体を観測する高度な技術(星読み)を修得していなければ、一人前にはなれなかった。
しかし、ただ観測の対象として、夜空を見上げていたわけではない。彼らは、夜空にきらめく星星の神秘な力に感応し、祈りを捧げることも忘れてはいなかった。
中でも北極星を中心とした、正星百六十三個と増星百八十一個で構成される中宮・ちゅうぐう、(または紫微宮・しびきゅう、ともいう)が最も尊ばられていた。


北極星は北辰とも呼ばれ古くから信仰の対象となっていた。

北極星の神は、正式の名を玄天上帝(げんていじょうてい)『天帝』といい、陰と陽の二気を生み出した太極の分身とされている。この神様は、あらゆる悪鬼妖怪を退治する神としても、崇敬を集めていた。
ただしこの北極星は、現在指定されている北極星とは違っている星だという。

 

陰陽道では、中宮は天帝が居る場所として崇め、北極星はその天帝の仮の姿であるとしていたのだ。
この北辰を祀るということは陰陽道でも多く行われていた。主な祭祀は、玄宮北極祭(げんきゅうほっきょくさい)鎮宅霊符神祭(ちんたくれいふしんさい)などである。

 

陰陽道では、北極星と同様に北斗七星も祭祀の対象になっていた。
北斗七星の神は、正式には北斗星君(ほくとせいくん)といい、地上の人間や死んだ者の善悪を調べ、悪行が多ければ地獄の王に報告して厳罰処分にさせていた。この神を厚く信奉すれば除災招福を与えて、長寿が得られるとされていたのだ。

一般庶民の間でも北斗七星は邪を除き、凶気を退け、また寿命や冨貴貧賤を左右する力を持つ神として、多くの民衆から崇拝されていたのである。

他にも南極寿星(なんきょくじゅせい)という星も崇拝されていた。
この星神は人間の幸せと寿命を司る神で、現在の乙女座にあたる。
この星は地上が戦乱のさなかにあるときは、全く見ることができず、天下が泰平であるときに姿を現すと信じられていたので、この星が現れると皆幸福と長寿を願い、手を合わせたと伝えられている。
七福神の中に頭が異様に長い寿老人という神様がいるが、その神様が南極寿星の化身とされている。

 

 

魔除け、厄払い・・・・穢(けがれ)を祓う(はらう)手法

陰陽師は、魔除けのための祭祀を数多く行っている。
たとえば、天体が異常な変化をしたときには天帝の意が変わり、地上にも必ず何らかの影響が現れるものと思われてきた。

特に日食や月食など、陰陽が逆転するような場合や彗星や流星など普段あまり見られない星が出現してきたときは、かなり悪い兆しであると判断され、凶意を鎮めるための祭祀が行われたのであります。
季節の変わり目などにも疫病による災いを避けるために、数種の祭祀を行っていた。

今も残っている節分の祭祀は、明らかにこの頃に行われた陰陽道の祭祀『追儺会(ついなえ)または鬼遺らい(おにやらい)』が起源となっているのだ。
このような祭祀は、もともとは天皇個人をさまざまな鬼神(邪霊、悪霊、汚れた霊)から守るために行われたものであったのだが、後世になると民間にまで流布していったのです。

陰陽道が日本に入って来る以前は、神道の神祇官(しんぎかん)によって、穢(けがれ)・不浄なものを祓うことが一般的であったが、陰陽寮が朝廷の管轄のもとに入ってからは、このような魔除け、厄除けの儀礼は一切陰陽師が引き受けるようになっていったのである。

 

陰陽道宗家である安倍家独占の祭祀にも『天冑地府祭(てんちゅうちふさい)』というものがある。
この祭祀は秘密の祭とされており、天皇が即位する際に行われるものであるが、天皇が陰陽師から受け取った衣と鏡に息を吹きかけてから、自分の体に当てて身を清め、その衣と鏡を箱に入れて祭場に持っていき、そこで陰陽師が祈祷をして穢(けがれ)を祓ったというものである。

このように陰陽道の祭祀とは、第一に朝廷を護ることであり、天皇をさまざまな災いから防護したり、穢れを祓うことを目的としていた。
そしてそれは勿論、国家安泰につながるゆえに、陰陽師の朝廷における地位も次第に向上していったのであります。

 

(陰陽道の本 など参照)

(Visited 235 times, 1 visits today)
error: Content is protected !!