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怨霊や生霊の呪いから身を守る呪術

怨霊や生霊の呪いから身を守る呪術

怨霊から身を守る呪術

以前に出した陰陽道ブログに記してあるが、陰陽道では怨霊から祟られている人を助けるための呪術をよく使うことが多いのだが、必ずしもそれらがうまくいくとは限らないのである。なぜなら怨霊から身を守る解決法など本来はあり得ないからである。

怨霊とは恨みを持ちながら死んだ人の霊が陰のエネルギーと結びつき、強大化してしまい様々な現象を引き起こされていく存在であるが、その恨みが解消しなければ収まらないのだ。
逆に考えれば、祟られる人とは祟られるようなことをした人だともいえる。それを防止するということは怨霊を阻止することになる。その場合、阻止する人まで怨霊の祟りを受けることになるのだ。よって陰陽師も怨霊と対峙する際はかなり覚悟が必要となるのである。

平安京では権力争いごとが絶えず、政治の争いごとに負けたものや、陰謀に陥れられ、無念のうちに非業の死を遂げた人物の怨念を数々受けてきた。代表的なものは菅原道真の怨霊である。道真は太宰府の北野天満宮で天神様として今では学問の神様として祀られているが、実は平安京にとって恐るべき怨霊であったのだ。
藤原時平の陰謀で九州、太宰府に左遷され、その地で寂しく余生を過ごした道真は死後、怨霊と化し、清涼殿に雷を落とすということなど様々な災いを引き起こした。

平安京は陰陽師らの手により、唐の都、長安をモデルに四神相応(ししんそうおう)という呪術で霊的防御が施された都であった。北に玄武、南に朱雀、東に青龍、西に白虎という神獣を召喚し、結界を張り巡らせるという呪術である。

しかし、そのようにして作られた霊的バリアをもってしても道真の怨念を防御することはできなかった。
道真の左遷に関わった藤原氏の公家たちが、雷に打たれるなどをして次々に怪死を遂げたからだ。それほど道真の怨念が凄まじいものであった。怨念とは怨霊の持つ恨みのエネルギーであるが、そのエネルギーが強ければ強いほど祟りの規模は拡大化される。
また、怨念は時間が経てば薄れるわけではなく、逆に時間が経てば経つほど増大化していくものなのだ。道真の祟りは五十年以上にわたって続き、『満点自在天』として祀られるまで鎮まらなかった。

古い怨霊、すなわち怨念を増大化させた怨霊はもはや人というよりも神、すなわち鬼神と化す。鬼神と化した怨霊は、普通の陰陽師、行者などがその祟りを封じることは困難であり、他の神仏に仲介に入ってもらうか、絶大な霊力を持った聖人などに清めてもらうしか手立てがない。
それでも完全に怨霊を止めることは困難なのだ。たとえば先住民系の神々の中には、鬼神として化している神があり、その多くは封印されているのだが、その封印が何らかの拍子で解かれた場合、天変地異や災いが起きるという。

なぜならそれらの神は、奉じられていた社(やしろ)は焼かれ、その神々を奉じていた人々はことごとく抹殺されているからだ。よく発見された銅鐸(どうたく)の一部が破壊されていることがあるが、これは祭祀で使っていた銅鐸を破壊することで、彼らの神を抹殺したという証(あかし)なのである。

抹殺され封印された神々は怨念を募らせ鬼神と化し、その恨みを晴らす機会を虎視眈々(こしたんたん)と待ち続けているのだ。
鬼神は丑寅(うしとら)の方向からやって来るという。ゆえに鬼門という。丑寅とは東北という意味である。

陰陽道では丑寅の方角(東北)と未申(ひつじさる)の方向(西南)は鬼神の通り道として、丁寧に扱い、不浄にしないように教えているが、この方角に住む鬼神に祟りを受けないようにするという配慮からなのだ。

 

祓い(はらい)

我々が怨霊やよくないことを避けるため、身近に接するお祓いは、神社や寺で受ける物だろう。
陰陽道では、形代(かたしろ)といって紙を人の形に切り、それを自分の身体に撫でつけて罪や穢れ(けがれ)を引き受けさせる『撫で物』という呪術があるが、いわゆる自分の身代わりとして形代を使うやり方である。
罪を背負った形代は真薦・まこち(イネ科の草)で編んで作られた船に乗せられ、川などに流される。このとき『大祓詞』を読み上げた。

陰陽道のこの作法は、神道に受け継がれていったが、神道ではそれらの罪や穢れを背負ったものは、すべて根の根底の国、または黄泉国(みよのくに)と呼ばれる場所に流れていくと考えられている。
その過程は川の女神である瀬織津姫(せおりつひめ)から海の女神・速開都姫(はやあきつひめ)に渡り、それから気吹戸大神(いぶきどのおおかみ)という神様に渡り、大神の気吹きで罪穢れを根の国底の国へ送り込まれるのである。根の国底の国で罪穢れを一切引き受けてくれる神様は速佐須良姫(はやさすらひめ)という女神であると古神道では考えられている。

 

大祓(おおばらえ)

朝廷は年に二度、六月と十二月に大祓の行事を行っているが、おそらく晴明も参加していただろう。祓いとはもともと神道の祭祀であったが、その際に唱えられる祝詞(のりと)から判断すると陰陽道的色彩が強いものだったと思われる。

祝詞には『謹んで請う、皇天上帝(こうてんじょうてい)、三極大君(さんごくたいくん)、日月星辰(にちげつせいしん)、八方諸神(はっぽうしょじん)、司命司籍(しめいしさく)、左に東王父(とうおうふ)、右に西王母(せいおうぼ)、五方五帝(ごほうごてい)四時四気、捧ぐるに禄人(ろくじん)を以てし禍災を除かんと請う。捧ぐるに金刀を以てし帝柞(ていさく)を延ばさんと請う。呪に曰く、東は扶桑(ふそう)に至り、西は虞淵(ぐえん)に至り、南は炎光(えんこう)に至り、北は弱水(じゃくすい)に至る。千城百国精治万歳万歳』と奏上(そうじょう)したという。

この祝辞の中には陰陽道的な要素が多分に含まれている。まず禄人だが、これは人形といって罪、穢れを移すもので、後で川に流したり焼き払ったりしたのである。祝辞の中に出てくる神々は陰陽道の神々であり、皇天上帝とは、中国の最高神であり、三極大君は、天地人の三道を司る神、日月星辰は天体を司る神、八方諸神は各方位の神、司命司籍は人の生誕を司る神である。
東王父と西王母は古代中国の仙人と仙女の名で、特に西王母は古くから中国で信仰されており、住処である崑崙山(こんろんさん)は三千年に一度実が成る桃ノ木があり、これを食べたなら数千年の寿命を得るという伝説から長寿の神として名高いのである。
扶桑、虞淵、炎光、弱水はそれぞれ陰陽道でいう各方位の極地を表している。このように大祓で奏上される祝辞にはすべてに至って日本古来の神々よりも陰陽道の神々が浸透していっていると言っても過言ではあるまい。

六月の大祓は『名越(なごし)の祓、(夏越祓)と呼ばれ、現在でも「茅の輪くぐり」として受け継がれている。
これは大祓で使う茅を紙で束ねて大きな輪を作り、これをくぐることで災厄を祓うという儀式である。この茅の輪が神社の注連縄(しめなわ)の起源になっているという説もある。

 

物忌み(ものいみ)

陰陽道には物忌みというものがある。暦で凶とされる日や不吉な夢を見たり、何か不幸な出来事が続いたりしたときにする呪術である。家の門を閉ざし、一定期間家の中に引きこもり、その間は人に合わず、写経や読経などをしながら慎んだ生活を送るのである。ある期間中、ある種の日常的な行為をひかえ穢れを避けること。斎戒に同じである。
具体的には、肉食や匂いの強い野菜の摂取を避け、他の者と火を共有しないなどの禁止事項がある。日常的な行為をひかえることには、自らの穢れを抑える面と、来訪神 (まれびと)などの神聖な存在に穢れを移さないためという面があると考えられている。

物忌みで清め慎んだ生活をしているときに、柳の木片または白い紙に物忌みという字を書いて、しのぶ草(岩や木に着生するシダ植物)の茎に結いつけ、身に付けたり、御簾(みす)に挿(さ)しておいたりしていた。しのぶ草は事なし草という異名があるゆえ使用されていたと云われる。

天皇が物忌みする際は、物忌み札を御簾(みす)に挿(さ)し、しのぶ草を結んだ冠をかぶって数日間清涼殿に引きこもっていたという。藤原道長は、二十年間で三百回以上も物忌みを行ったと伝えられている。

この物忌みを行うにあたって、始める日、行う人の干支などを暦や式占いにより厳密に調べられていた。
物忌み期間中の洗髪や髪切り、食事の献立まで陰陽師が細かく取り仕切っていたという。この物忌みの語源は『拾芥抄・じゅうがいしょう』によると、古代インドの迦毘羅衛国(かびらえこく)の桃園に住んでいたという鬼神の名前から由来したものであるとされ、この鬼神の近くにはなぜか悪鬼が近づかなかったという。

 

符呪(ふじゅ)

場合によっては物忌みするだけでは済まない場合がある。そのような時は符呪といって呪文を書いた御札や御守りを霊符と呼び、身に付けたり、家に貼ることで常時霊的バリアを自分の周囲に張り巡らす措置がとられた。符呪はまじないとも云われる。

御守りによく使う護符という意味は、WEBLIO辞書によると神仏の名や形像、種子(しゅじ)、真言などを記した札のこと。
と書かれている。
また、ブリタニカ国際大百科事典によると、将来生じるかもしれない災厄を予防するために,呪力を帯びたものとして身に着けられる小さな物。ひとたび呪力が与えられれば,普段は祈願されたり,特別視されたりすることはほとんどなく,したがってその働きは自動的であるので,しばしば呪符と区別されることがあるが,現実にはそれほど厳密な差異はみられない。
先史時代から現在まですべての民族にみられるもので,爪,髪,骨,金,石,布,毛皮,紙などが護符としてよく用いられる。

 

よく書かれる呪文は『急急如律令・きゅうきゅうにょりつりょう』などであり、すみやかに物事が成就するという意味がある。また呪文は文字とは限らず、図形などで書かれる場合が多かった。火災盗難除けに使われる『鎮宅七十二霊符』などもこれにあたる。

この霊符の起源はかなり古く、道教の経典には太上老君(たいじょうろうくん)が天空から地上の山河を眺めてそれを模写したことから始まったと伝えられており、大自然の造形を模写することでその力まで、写し取ると考えられていたのだ。

 

霊符を仏教に取り入れた空海

霊符はしばしば朱で書くことが行われた。また、朱書しない場合でも、紙の方は赤い紙を使うように指示されていることがある。朱はもともと、水銀より取り出される丹(たん)のことである。水銀は、古来、仙薬とされており、実際に中国では性病などのように通常の漢方薬では効果が薄いとされる病に珍重されていた。
弘法大師空海も、水銀の呪力に着目し、そのため、真言密教の霊場を、水銀の産地である高野山に求めたという説さえある。高野山の地主神丹生津姫命(じぬしがみにうつひめのみこと)の名前にもそれがうかがえる。
弘法大師は、いうまでもなく、真言宗の開祖であるが、道教に関しても並々ならぬ知識があったようである。『三教指帰・さんごうしいき』などでは、当時の常識を破って、道教を儒教より上に立て、仏教に次いで優れた教えであるとしているし、最古の学校・綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を開き、道教の講義などで伝えている。
また、空中に『大般若魔事品・だいはんにゃまじぼん』と大書して、悪魔を降伏したり、中国にあたっては、水の上に童子が空書きをした『龍』という文字に一点加えたところ、たちまち本物の龍となって昇天したなどという伝説があり、道教の符呪的な呪法にも通じていたようである。

 

霊符を作る心構え

霊符を作る際は、もちろん細心の注意をはらわなければならない。まず文字の場合は決して字を間違えてはならない。字を間違えれば全く違った意味の呪力が働いてしまう場合があるからだ。次に霊符を書くにあたっては真剣な気持ちで行うこと、いい加減な気持ちで書いた符はなんの効果も発揮しないのだ。
そしてできるだけ書くときは息を止めた方が良いと言われ、気合を入れて一気に書き上げるのが理想である。

霊符を書く道具としては必ず筆を用いる。そして硯を用意し、墨または朱で書くことが基本である。書き写す対象は白い紙または板の小片などで、紙はなるべく滲まないものを選んだほうが良い。そして一度霊符の作成に用いた道具はそのほかの用途には一切使わないようにしなければならない。
霊符を作成する日は庚虎(かのえとら)、壬子(みずのえね)、癸卯(みうのと)、癸酉(みずのととり)が最も良い日とされている。作成された霊符は身に付けたり、家に貼る以外にも、病人の枕の下に置いたり、または水を入れたコップの上に割りばしなどを置きそこに霊符を乗せ、二時間ほど経ってからその水を飲んだりすることも有効だと考えられている。

古くなった霊符は神社でお焚きあげ(火で焼く)してもらい、それから人里離れた場所に埋める。むやみやたらにゴミ箱に捨てたり、破いたりするとかえって霊的な障害が現れる可能性があるので危険だと言われているのである。

 

 

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