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道教から呪術を引き継いだ陰陽道

道教から呪術を引き継いだ陰陽道

画本西遊記百鬼夜行ノ図、江戸末期

 

魔を祓い妖怪などを思うがままに駆使する呪力を持ち得る神格化された陰陽師は、目に見えぬ世界を読み解き、怨霊や生霊などの呪いを解く。道教から日本的に展開させていかれた陰陽道の歴史的な背景、よく使われていた陰陽道呪術の種類などをもう少し詳しく記してゆこうと思う。

 

陰陽道呪術の源流は、大陸伝来の自然宗教である道教である。日本でも古くは邪馬台国の時代にすでに鬼道という名で道教呪術が入り込んでいた。

弘法大師空海も密教を教えていた頃から道教を重んじていて陰陽道、密教の教えにも取り入れていた。

 

 

占術が中心だった初期の陰陽道

 

陰陽道はその発展の過程において、これら道教的色彩の濃い呪術を吸収し、多様な呪術を駆使するようになっていく。

初期、つまり律令時代の陰陽道は、主に天文、歴算などによる日や方位の吉凶、陰陽五行によって、木、火、土、金、水に分けられる事物や色彩を使った呪術が中心であった。

たとえば、冠位十二階の十二という数字は天帝の星、太一星(たいいつせい)をめぐる十二星より導かれているし、衣服の色も五行思想により五色に分けられていた。
つまりは、陰陽五行の理(ことわり)を得ていたものが吉であり、善であり、そうでないものが凶であり、邪(よこしま)なるものとされたのである。
すなわち、衣服なども五行の理よりはずれていれば服妖(ふくよう)、民間の歌などにおいては詩妖(しよう)といって曲々しい凶兆であり、いちいち改正の手を加えなくてはならなかった。火炎が頻発するのは、深紅色の衣を皆が身につけたためとして、この色を禁ずるに至った例もある。
この時点で陰陽道は、一種の唯物思想であり、五行の事物によるバランスをとることで、ものごとが正されると考えられていたと思われる。今日でも、奇門遁甲(きもんとんこう)や四柱推命(しちゅうすいめい)などのような陰陽道系の占術を行う人々のなかには、神仏、霊などは認めず、あくまで陰陽五行の理によって、このごとを解決しようという姿勢の強い人々も少なくないのである。

 

 

邪法とされた道教の神通力の開発法

 

これに対して奈良朝には、より呪術的な道教として『呪禁道・じゅこんどう』が登場してくる。呪禁の『禁』は、刀を手にして呪文を唱えるという意味とされ、この姿は、現代の道教の道士たちの行う祭式にもしばしば見受けられる。
呪禁師たちは、陰陽五行の理以上に、道教的呪術の色彩を強め、鬼神を伏(ふく)し、悪星を退け、病を治すことをもっぱらとするなど、事実上、日本における道士であったが、ほどなく陰陽道に吸収されて、新しい呪術としての陰陽道を形成したのである。

やがて陰陽師・安部晴明の出現により、陰陽道は、後に土御門神道(つちみかどしんどう)、天社神道(てんしゃしんどう)へと変化していく道を歩みはじめる。つまり、神道というスタイルで陰陽道は長く世に君臨することとなるのである。

一方、民間に行うことを禁じていた宮廷内の陰陽道とは対照的に、大和朝廷以前から野にあった道教は、山岳信仰と結びつき、独自な発展を遂げる。それが修験者によって広められた『神仙道・しんせんどう』である。

『本朝神仙伝』には、三十七名の日本の仙人があげられているが、この中には、弘法大師(こうぼうだいし)や慈覚大師(じかくだいし)、泰澄(たいちょう)や日蔵(にちぞう)などをはじめとする仏教者十八名が名を連ねており、日本の神仙道が、中国のように、単に不老長生(ふろうちょうせい)を目的としたものではなく、仏教的な悟りや成仏のための補助手段として行われていたことがうかがえるのである。
そして時代が下り、密教や修験道などが全盛の時代を迎えると、神仙道はその中で花開き、定着していくこととなる。

結論から述べると、日本道教の流れを二分すると、占星術、方位術、反閇(はんぱい)、祓い(はらい)、人形(ひとかた)などの具体的呪法を道教より引き継いだのが陰陽道であり、道教の神通力開発法を中心に引き継いだのが神仙道と考えてよいだろう。

それ故に、野にある道教・神仙道は、為政者にとっては危険な存在であり、古代より邪法として禁止されてきたのである。しかし、この如何にして神通力を手に入れるかは、当時の仏僧、神官、陰陽師や修験者に至るまで共通の課題であった。

 

 

神道に侵入する陰陽道

 

陰陽道は武家の思想行動体系にも様々な影響を及ぼしていたが、陰陽道は神道に対してもラディカルに介入し、ひいては妄想の域に達するばかりの物々しい思想形態をみせることになった。

鎌倉時代から室町時代にかけて形成された、いわゆる中世神道が、それである。陰陽道はもちろん、儒教や密教のフィルターを、多角的、多重的にかけるなどして、神道理論をこねまわし、再編し、なおかつ秘教化するなど恐るべき操作がされていたのである。しかるに、武家社会が戦乱の極みに向けて混迷の度合いを深めていったのに対して、神道のオルカズム的傾向はますます加速され、かつ濃密に醸成されていった。中世の神道論が、いかに陰陽道思想に深い影響を受けて、複雑怪奇に展開を遂げていったかを説明していこうと思う。

そもそも神道の入門書といい奥義書といえば、『古事記』と『日本書紀』になるわけであるが、その記紀(きき)からして陰陽五行説に彩られている。また、道教の根本のひとつ、禊祓い(みそぎはらい)は神道の専売特許のように思われているが、これですら実は、陰陽道に由来しているといえば驚かれるであろう。

禊祓いは、麻や小竹、あるいは人形(ひとかた)に自分の穢れを移して水に流すものである。平安朝以降、陰陽師は七瀬の祓いと言ってこの禊祓いを行っていた。
当時、原因不明の病気や気の塞ぎは、すべて物の怪(もののけ)、あるいは呪いのせいであると考えられており、禊祓いは肉体に憑いた穢れという魔を落とすための効果的な手段とされていたのである。
禊払いは、神道祭祀家(しんどうさいしけ)の中臣氏(なかとみし)が中心になって管掌(かんしょう)したことから、中臣祓(なかとみはらえ)と呼ばれるようになった。この中臣祓が密教などと結びついて、両部神道の教説が形成されるにいたる。

 

 

両部神道と陰陽道

 

その代表的なものが、鎌倉期成立される『中臣祓訓解』である。真言密教の大成者・空海の著作と仮託されていたもので、いわば中臣祓の注釈書であるが、その注釈にかかわる理論的な重奏低音を奏でているのが、陰陽道なのである。中臣祓を陰陽道的文脈で検証すると、そこで浮き彫りになって現れる要素は、星辰信仰の(せいしんしんこう)のアナロジーである。
たとえば、高天原(たかまがはら)を説明するにあたって、それは天に光り輝く三つの星のことだと説く。つまり日天子・にってんし(太陽)、月天子・がってんし(月)、明星天子・みょうじょうてんし(金星)の三天子のことであるという。
なんとも奇異な感じであるが、高天原ばかりではなく、中臣祓の効能を説く箇所にも、星に対する信仰がキーワード的な役割をはたしている。すなわち、『日月、五星、十二神、二十八宿、光を和らげ塵に同じくして、衆生を利益せんとす』とあり、人間の幸福は、星の力が左右していると強調するのである。
さらに、神道の神々についても、星神と同一であるとみる。速佐須良比咩神(はやさすらひめのかみ)を六星のなかの司命(しめい)、司禄(しろく)、【いずれも星の名】の所化(変化)として、一切の不祥事を祓徐(ふつじょ)する働きがあるという。
また、驚くべきことに気吹戸(いぶきど)を泰山とみなし、気吹戸主神を泰山府君の所化としている。泰山とは、中国の五岳(陰陽五行説を中国の五つの山に配当したものとされる)のひとつの東岳泰山で、道教の最高聖山である。泰山府君とは、五岳信仰の中心、東岳泰山の神で、人間の生死と副禄を司る働きがあるとされている。
このように、星辰信仰や五岳信仰という道教と陰陽道的枠組みで中臣祓をオカルテックに背後から捜査していったのが両部神道である。
『中臣祓訓解』の極みつけは、次の件(くだり)であろう。『祓は、神詞(かんことば)最極の大神咒(だいしんじゅ)なり。…然れば則ち十界平等の本道、諸尊大悲の法門、法尓成道の通相、諸天三宝の秘術なり』などと祓いの密教的意義を強調する一方で、祓いが『知恵の神力を以て怨敵四魔を破』し、能く万病を治す』『不死の薬』と結論づけている。

 

呪術的宗教としての陰陽道の役割を浮き彫りにさせているだけでなく、祓いの行為が、調伏の呪法とも通じ合い、さらには不老不死の薬としての象徴であるという神仙思想を複合させている。
同じころ成立した『大和国葛城宝山記・やまとかつらぎほうさんき』も、陰陽道の呪術的要素が混入した奇書である。大和国葛城山といえば、陰陽道に関心を持つものは、絶対に無視できない聖なる山と言っても過言ではない。
なぜなら葛城山からは、修験道だけでなく陰陽道の祖ともいえる役小角(えんのおづね)が生まれ、さらに、その流れが陰陽道宗家の賀茂家へと連なっているからだ。
また、記紀の記述でも知られるように、葛城山一帯には、かつて土蜘蛛(つちくも)や八十梟梟師(やそたける)など、まつろわぬ土着勢力が蟠踞(ばんきょ)して、大和朝廷と対決していたところである。もともとシャーマニズム系の咒類が活動し、陰陽道の最奥部のおどろおどろしたものが息づいていた。闇のネットワークの拠点でもあった。
その意味からしても陰陽道が両部神道のなかに大きな影を投げかけているのも、故なきことではなかったのである。

 

さて、両部神道の説を一層発展させた秘書としては『天地麗気記』が挙げられよう。冒頭部分には、『天神(あまがみ)の七葉は、過去七仏転じて天の七星と呈(あらわ)る。地神(くにつかみ)の五葉(いつは)は、現在の四仏に舎那(しゃな)を加増して五仏と為る。化して地(くに)の五行神と成る』とある。一読すればお分かりのように、陰陽道と密教と北斗信仰が、それぞれ照応し合っている。一種のアナロジーの哲理に基づているが、それはオルガティズムの基本的な方法論でもあったのだ。

 

 

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