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陰陽道と密教(占術)

陰陽道と密教(占術)

占術のことを書こうと思いましたが、天文学から八卦や人相・手相・暦学(選日)辻占・橋占など読んでいても理解に時間がかかり書いても皆さんにも身にならないことが判り止めました。
詳しくは調べることは出来ますので検索などで必要な方はお調べください。八卦が今の四柱推命学に纒められていったようです。

自然の中に感ずるものが今も昔も変わっておりません。気象学は発展してきていると思います。
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陰陽道と他の宗教との習合は、すでに、奈良時代から徐々に現れはじめ、平安に至るとひとつのピークを迎えました。
とりわけ平安朝に興った真言・天台の密教は、陰陽道と最も緊密に結びつき、互いに刺激し合うなかで、数々の知識と技能を共有するにいたっております。
この後では、星の占いと祭祀、呪術・呪詛、占筮(せんぜい)を軸にそうした知識・技能の様子を盛んに研究されていったものと思われます。

日本人の星に対する関心が、陰陽道の天文観象術導入依頼、盛んになったことはすでに触れました。
陰陽道では星は地上の吉凶を司る神そのものでありました。それゆえ星は早くから占いの対象であると同時に信仰の対象にもなり、二十八宿、日月五惑星の七曜、北斗七星などが祀られ、占われてきました。
そうした信仰と占いの合体例のひとつに天智天皇三年、(670)に唐の天文博士・郭務悰(かくむそう)によって伝えられたと言われる『属星祭』(しょくしょうさい)があります。
属星祭とは、その人の本命星(命運を司る星)を祀る祭祀で、生まれ年と日の干支(かんし)により、北斗七星のなかのいずれか一星が本命星に配当されます。
本命星信仰は他の二十七宿、日月五惑星信仰や占いとともに奈良から平安に至って異常な流行を見せ、公家のみならず、民間にまで広がりました。

一方、仏教においては、陰陽道系の天文占いとは起源も成り立ちも異なる密教占星術がまず奈良時代に導入され、九世紀初頭に空海が『宿曜経』を伝承して以降、本格的な研究がスタートされたということです。
ついでプトレマイオスの『テトラピプロス』(”占星術のバイブル”と呼ばれる)の中国バージョンと考えられておる『都利いつし経』が九世紀半ばに東寺の宗叡(しゅうえい)によってもたらされるに及んで一層の発展を見、一〇世紀の『符天暦』請来によって、人の出生時からホロスコープを割り出す今日的な占星術を完成させるに至ったのであります。(インド学の矢野道夫教授の説に従う)
この密教占星術は宿曜道とも呼ばれ、専門の宿曜師(僧侶)がこれを司ったが、この宿曜道においても、陰陽師が扱う二十八宿、日月五惑星が占いの対象であったため、両者は早くから習合し、日本的占星術とでも言うべきものを作り出していったようです。

本来、密教占星術で扱う二十八宿はインドのそれであって、陰陽道二十八宿の典拠になっている中国の二十八宿とは別物でありました。宿(一日ごとに天体の月が宿る恒星のこと)の数も、インドでは二十七宿であり、各宿の内容もインドと中国では異なっていたが、日本ではこれが混同されて一つになりました。
こうして密教系の占星術と陰陽道のそれが組み合わされ、更に密教には陰陽道系の星神が仏教外護の天部の神々として、また、陰陽道には密教系の天部が星神として取り込まれた結果、、壮大な星神のパンテオンが、密教伽藍や壇中に出現するに至ったのであります。

 

平安時代にピークを迎える星神信仰

こうした星神信仰および占星術の流行は、星曼荼羅を用いての星供養という形で、密教中に消化され、加持祈祷における星神の重視となって現れました。

本命星を祀る陰陽道の『属星祭』は、天台密教の中では『本命星供』(ほんみょうしょうく)の名で執行されたし、北斗信仰も、密教がこの星を妙見菩薩、すなわち吉祥天と習合させて『尊星王法』(そんじょうおうほう)などによって、厚く祀ったところから、民間にまで広がりました。

天台密教で最もスケールが大きいと言われる『大曼荼羅供』では、十六天、十二宮神、北斗七星、二十八宿、その他七十天にのぼる星神が供養されますが、こうした星神のパンテオンは、以上述べてきたように、まず、陰陽道が星神信仰の下準備を行い、その上に、大陸伝来の新仏教、(密教)が荘厳な儀軌と理論、および加持祈祷などの呪法と結びつけることによって成立したのであります。

その背景には、星神が、日本古来の自然神・・・・山や川や海や野などに潜む八百万の神々より霊威が強く、したがって、災いをもたらすにせよ、福をもたらすにせよ、その影響ははるかに強烈だろうという考え方があります。
こうした考えは、遠く飛鳥の時代から、陰陽道や仏教が、盛んに日本人の意識に植え付けてきたものであり、それが、平安時代にいっきに表面化して人々の心を支配したのであります。

 

密教呪術の断片に息づく方法論

次に呪術に眼を転じると、ここにも陰陽道と密教との切っても切れない関係が浮き彫りになって現れて来ます。
その端的な例は、『祈雨法』に見られます。雨を降らすことは、太古の時代から、シャーマンの最も重要な職掌であり、インド土着のシャーマニズムと仏教の習合によって成立した密教でも、この法は仏法の功徳を示す最も重要な修法として執行されました。

ところで、祈雨法を成就させるためには、神仏の加護が必要なことは言うまでもないが、ほかにも天象(特に日月および雲などの気色)についての知識が不可欠であり、この分野の権威ともいうべき陰陽道の知識が仏教に流れ込んだのです。
さらに、密教における祈雨法には、青という色が至るところで用いられたが、これは雨、すなわち水を呼ぶものが五行の木(これはいろでいうと青になる)であるという五行の思想に由来します。また、祈雨法が、密教と陰陽道の合同で行われた例もあります。

東密(真言密教)の側の要請によって祈雨法が修される場合には、これと並行して陰陽寮でも、宮城の神泉苑で、『五龍祭』が行われたが、この五龍(五行の象徴)の神像を作るのは、陰陽師であり、そこに龍の梵字を書き込むのは、東密阿闍梨の仕事でありました。

呪詛・呪術においても、密教と陰陽道の習合は少なからず見受けられます。平安時代の陰陽師が呪詛を行って人を呪い殺した例、および陰陽寮の陰陽師が、藤原時平の命令に従って、呪詛のましものを宮城の周り四方に埋めた例は前章に記しました。
このまじものの代表は、呪う相手をかたどった人形(ひとかた)であり、ヒトカタは、平城京遺構からも多数発掘されているが、仏教中、最も盛んに呪術・呪詛を行ってきた密教でもこのヒトカタ(人形)を用いた秘密修法は数多く修されて来ました。

たとえば、『六字河臨法』では船中に護摩壇をしつらえ、河を遡(さかのぼ)りながら(『流れに逆らう』という行為は古代的な呪詛の作法)鉄およびワラで作った人形に呪術を施し、河に投じてゆくのです。また、この呪法に先立って神道の『中臣祓』(なかとみのはらえ)が読まれるが、中臣祓そのものが、陰陽道の影響と不可分に結びついて成立しており、そのため六字河臨法での中臣祓読誦に陰陽師を招いて用いる場合すらあったのであります。

 

占術を通して修験道、神道に影響

占いの麺でも陰陽道の知識と技術は大量に僧侶の中に入り込んでおります。僧・浄蔵(10世紀)は、平将門の乱の調伏、菅原道真の怨霊の封殺、内裏炎上や諸寺災厄の予言など、数々の功験譚(こうけんたん)によって知られますが、『北野天神縁起』は、この浄蔵について、『10歳ぐらいから”護法”を使い、後には仏教系の学問・技能はもちろん、天文、易道、卜せい(ぼくせい)占相などにおいても、世に並ぶもの無しと謳われた』と記しています。

実際、浄蔵はしばしば占星によって人の運命を占いました。そのうえで必要に応じた加持祈祷を行ったわけで、密教の呪術と占いは、いわば密教呪法の両輪として機能したのであります。(ちなみに”護法”とは、験力ある僧侶に使役される童子姿の鬼神を指し、この語法の陰陽道バージョンが安倍晴明が用いたという『式神』にあたる)。

もう一例挙げておきますと、空海に並んで祈雨法に優れ、『弘法大師の再来』とまで言われた東密小野流の開祖・仁海(10~11世紀)も、祈雨法を修するにあたっては、まず占せいによってその結果を占いました。
また、天皇の病気の原因調べなどにも易を用いており、ここでも加持祈祷と占筮(せんぜい)が密教呪法の両輪として機能している例が認められるのであります。

このように陰陽道は仏教、とりわけ平安時代を支配した密教と、最も深く習合したが、はかに神道や修験道のなかにも入り込んだのです。

先の浄蔵が修験の修行を行っていたことや、安倍晴明に修検と結びついたエピソードがあることなどは、その一例だが、このあとの『修験道』で触れていきます。
また、神道と陰陽道についても語るべきことは少なくないが、次回の神道に侵入する陰陽道のところで説明します。

最後に占いについて、古代律令体制においては、神祇を司る神祗官が、日本古来の亀卜(きぼく)によって占い、陰陽師が易せいによって占った結果を総合的に判断して、事の吉凶を定めるという神道・陰陽道並立体制が維持されていたようです。平城京遷都のみことわりに、平城の地は『亀せいならび従う』という表現があるが、これは神祗官の亀卜、陰陽師の占せい共に吉と出たという意味を表しているものです。

しかし、占いが高度化し、占筮(せんぜい)が時代の主流になるにつれて、神道にも、占筮(せんぜい)の元になっている易や五行理論が入り込み、その結果、古来の亀卜解釈にも陰陽八掛・五行理論が混入していきました。今日、伝統的な神道の占いと呼ばれるものの中に五行や易の発想が随所に見られる理由は個々にあるのです。このように、神道もまた、陰陽道によってその理論の多くが立てられたのであって、その意味で、陰陽道の歴史は日本文化の中に陰陽道の世界観が取り込まれ、一体化していったという歴史なのであります。

 

(陰陽道の本 学研 引用 参照 )

 

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