星はなぜ輝くのか。それなのになぜ夜は暗いのか。ここに重大な秘密があるに違いないと考えました。これは現代の科学ですら完全には解けない難問であります。
ちなみに夜が暗いのは、宇宙の歴史が一点の爆発、すなわち、ビックバンが始まったために、星の光がいまだ宇宙全体を満たすだけの時間が立っていないから、というのが、とりあえず現代の宇宙論の立場であります。
中国人はどう考えたのでしょうか?『未だ天地あらざりしとき、混沌として鶏の子の如く、冥幸として始めて牙し豪鴻として滋萠す』三五暦紀
彼らは宇宙始源を、大いなる『混沌』と見たのです。『混沌』とは天地万物を生成させる根元的エネルギーで、これを『元気』といいました。地球以前の宇宙は、混沌=元気をはらんだ途方もなく巨大なタマゴでした。これは現代科学のいう一点(特異点)にあたります。
これが弾けるとどうなるのか。『清陽なるものは薄靡(はくび)して天となり重濁(じゅうだく)なるものは凝滞(ぎょうたい)して地となる。清妙の合専するは易く、重濁の凝結するは難し。故に天まず成りて地、後に定まる。』(『准南子』天文訓)
混沌=元気のなかの、軽く澄んだ性質は舞い上がって『天』となり、重くよどんだ性質は沈澱して『地』となりました。前者の成分はカラッと清浄でまとまりやすく、まず、天ができました。重く混合した成分は固まりにくいので、遅れて大地が誕生しました。前者の軽く清浄な性質を『陽』の気、後者の重くジトジトした性質を、『陰)との気といいます。
『陰』『陽』の二気はともに宇宙根源の元気タマゴから発したのだから、天、地はもとより同根であり、あたかも男女が惹かれ合い、交合するがごとくに作用し合います。
従って星の輝きにかかわらず夜が暗いのも、天地=陰陽交合の証なのです。
これが古代中国の宇宙論、『陰陽道』の根本原理であります。
見ての通り、神とか創造主といった言葉はどこにもありません。カラッと明快、しかも現代科学の一点、=素粒子が、超高温、超高圧のもとに膨張し、ついに爆発して陽子、中性子を生じ、さらに原子核に進みます。その過程を太古の天文書がほぼ的確につかんでいるのは驚嘆に値します。
万物に霊魂が宿るとして、ひたすら崇めた原始自然崇拝の時代に、神秘をただ神秘とせずにその構造までも詮索する、ここがいかにも中国人らしい現実的な一面でありましょう。
古代人にとって先の読めない自然のふるまいは常に脅威でした。いつ雨が降るのか、いつ河川が反乱するのか、今年の夏は暑いか寒いかを、事前に知りたいという欲求は切実でした。
そこで、どうやればそれを知ることができるかを、古代人は考えました。はっきりしていることが一つありました。それは、気候にせよ、天変地異にせよ、それらを司るのは、人間にはない超越的な力を持つ神だということでありました。
そこで人は神と交流することによって、天地の運行を事前に知りまた神と結んでそれを動かす技術を作り上げて行きました。シャーミニズムがそれであります。
シャーマンを意味する漢字に『巫』(ふ)という文字があります。この文字は上の横棒が天、下の横棒は地を表します。なかの二つの人の字は踊るシャーマンであり、天地を結ぶ中央の縦棒は、神の降臨を意味するのです。
つまり、『巫』という文字は、シャーマンが、踊りという最も古代的な神憑り法によって、神を天から地へと招く姿を描いた文字なのであります。
こうしてシャーマンは、神憑りによって神と人との取次を行い、また、占いによって、真意を探ったが、彼らの方法は彼らの方法は素朴であり、また断片的だったのです。
そこで人々は優れた方法ー世界を原理的・構造的に把握し、その原理に基づいて包括的に世界を読む体系を求めたのです。
こうした動きは古代中国だけに起こった訳ではないのです。同じ動きはメソポタミアでも、エジプトでも、インドでも、ギリシアでも起こりました。
『世界が幾つの要素からなるかをきわめれば、その要素に合わせて世界を分類したり、影響関係を推理したり、神の秘められた意思を判断することができます。』・・・・・・この考えから、世界を『四つのエレメント』に還元する四大思想や、世界を『七惑星』に還元する七元思想などが生まれました。四大や七惑星は、世界を構成する”単位数”であり、宇宙を貫く普遍の原理と見なされておりました。
同じように中国では世界を『陰陽』に還元する思想が、経験の中から生み出されました。陰陽の二元は、さらに四象という四元に展開し、四元から森羅万象を構成する八つの気の状態ー『八掛』(はっか)(乾・兌・離・震・ソン・カン・昆・坤)(けん・だ・り・しん・そん・かん・ごん・こん)へと展開する易の思想へと進みました。
また、この陰陽・八掛の思想とは別に、万物・万象を『木火土金水』という五つの気の働き、『五行』に還元する思想が、段階的に生み出されたのです。
かくして、この陰陽八掛と五行の思想が結びついたとき、陰陽道の思想と技術の背景は整いました。
つまり、陰陽道とは、世界中の古代文明に発生した『世界を読み解くための術』(術は思想と技術を含む)の中国バージョンであり、世界を読み解くための記号の体系として、陰陽・五行説を用いたがゆえに、後世、『陰陽道』と呼ばれるようになったのであります。
儒教との融合により易に昇華
古代の哲学者・神秘家にとって、自然は巧妙なパズルでありました。そのパズルを解くための記号として、陰陽・八掛・五行は用いられたのです。
そのため、陰陽・八掛・五行は縦横に組み合わされたのです。たとえば五行は陰陽十干(いんようじゅっかん)に分けられ(木の陽と陰が甲・乙(こう・おつ)。以下、同じ領域で火=丙丁(へいてい)。土=戊己(ぼき)金=庚申(こうしん)水=壬癸(じんき)、また五行は八掛に配当されたのです。
八掛は組み合わされて宇宙の64掛になり、64掛を導き出すために要する陰陽の数1万1520が万物の数と見なされたのです。これが『易経』なのであります。
古代中国人の信じるところによれば、易と五行は、本来、天の叡智に属していたのです。この叡智は天を継いで最初の王となった半蛇身の伏義(ふつき)と、洪水を治めた人面魚体の禹王(うおう)に、万象の秘密を凝縮した神秘図(『河図(かと)』および、この世界を治めるための根本を示す天与の書『洛書』(らくしょ)という形で与えられました。
そこで伏義(ふつき)は『河図(かと)』をもとに八掛を編み出し、禹王(うおう)は『洛書』をもとに五行を編み出したのです。
ついで、これら半神人のあとをうけて現れた聖人が、それを人間界で利用できる形に改めて、解釈、実用の道を開いたのです。その聖人を『易経』は周の文王(紀元前12世紀)や孔子(紀元前551~479年ころ)だというのであります。
この易の由来譚は、陰陽五行思想と儒教の結びつきを示しております。
実際、陰陽道の思想は、儒教との結びつきによって著しく神秘化し、また、哲学科しました。
たとえば、大宇宙としての天と、小宇宙としての人は照応しているという『天人相関思想』や中国皇帝は天の命を受けた地上の支配者であり、天の徳、すなわち五行の徳を地上に現すべく選ばれた天の子であるといった『天子思想』・『天命思想』、あるいは、皇帝の振る舞いが天の意思や天の徳にかなっていない場合、もろもろの災いを起こして天が戒めるといった『天譴災異思想』(てんけんさいいしそう)などは、いずれも紀元前の儒教との結びつきによって、陰陽道の中に取り込もれていったものであります。
(陰陽道物語、滝沢解 陰陽道の本 参照)