九字護身法
九字の切り方
「希望」「愛」「怒り」「憎しみ」「恨み」「苦しみ」
人間の力が及ばない世界に働きかける「呪術」という行為は、世界に共通したものである。それがいつから始まったのかは定かではないが、確実なのは世界中で同じような儀式が行われてきたということであります。
九字護身法
「九字」とは仏様のお言葉である真言の一つで、主に身を護るために使われるものです。
中国から伝わったと云われる法で、 元々中国の神仙修行の際に、神仙の加護を願い護身に誦える呪文であり、日本には密教の呪法の一つとなって伝わっています。
九字護身法(くじごしんぼう)とは、「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」の九字の呪文と九種類の印によって除災戦勝等を祈る作法である。ただし本来は仏教(特に密教)で正当に伝えられる作法ではなく、道教の六甲秘呪という九字の作法が修験道等に混入し、その他の様々なものが混在した日本独自の作法であります。
九字護身法は、もともとは中国の晋の葛洪が著した『抱朴子』で山に入るときの「六甲秘祝」の言葉です(「臨兵鬥者皆陣列前行」)。修験道や陰陽道で護身の術として伝えられ、種類もいくつかあります。
九字の呪文と九種類の印によって除災戦勝等を祈る作法であります。ただし本来は仏教(特に密教)で正当に伝えられる作法ではなく、道教の六甲秘呪という九字の作法が修験道等に混入し、その他の様々なものが混在した日本独自の作法であります。
由来
六甲秘呪は『抱朴子』内篇第四「登渉篇」に晋の葛洪が「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」と唱えたとあります。
日本での九字作法は、独股印を結んで口で「臨」と唱え、順次に大金剛輪印、外獅子印、内獅子印、外縛印、内縛印、智拳印、日輪印、宝瓶印(別称:隠形印)を結び、「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」を唱える。次に刀印を結んで四縦五横の格子状に線を空中に書きます。
道教では縦横法と称し、修験道等では俗に「九字を切る」と称されます。
修験道では九種類の印にそれぞれ、毘沙門天・十一面観音・如意輪観音・不動明王・愛染明王・聖観音・阿弥陀如来・弥勒菩薩・文殊菩薩を本地仏に配当する説がある。ただし不動明王の印である独股印が毘沙門天、金剛界大日如来である智拳印が阿弥陀如来など、印の形と本地仏とは関連性のない配当がされており根拠は不明である。また外獅子印、内獅子印の二つはインド撰述の密教経典には見られない、日本独自の印であります。
そのほかに天照皇大神・八幡大菩薩・春日大明神・加茂大明神・稲荷大明神・住吉大明神・丹生大明神・日天子・摩利支天を配当する説もあります。
九字は中世には護身、戦勝の利益があるとして、武人が出陣の際の祝言に用いるようにもなり、やがて忍者の保身の呪術としても使われました。
また日蓮系統の法華行者では、日栄の『修験故事便覧』による法華経序品の「令百由旬内無諸衰患」を九字とする説に基づいて、格子状の九字を切る作法が相承されます。
有名なのは、
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」
(りん・びょう・とう・しゃ・かい・じん・れつ・ざい・ぜん)
です。意味は「臨める兵、闘う者、皆 、陣列べて、前に在り」となります。
最後に十文字目を付け加えることもありますが、その際の十文字目には最も願いを込めた言葉を使います。
中世においては武士が戦に出陣する前の願掛けや、忍者の保身の術として唱えらました。
また、とくに陰陽道では
「青龍・白虎・朱雀・玄武・勾陳・帝台・文王(南斗)・三台(北斗)・玉女」
(せいりゅう・びゃっこ・すざく・げんぶ・こうちん・ていたい・ぶんおう(なんじゅ)・さんたい(ほくと)・ぎょくにょ)
と、九字を四神・神人・星神の九星九宮に置き換えて唱えていました。
◎九字護身法の印の切り方(陰陽師編)
陰陽師は、破邪の法をほぼ用いていたとされます。破邪の法は、退魔(護身)を目的とした法です。
人差し指と中指の二本を刀に見立て格子を描く破邪の法ですが、この格子は1本1本が刃のネットのようなものを現していて、その中に侵入しようとした鬼や怨霊を、ばらばらに切り裂くという意味があります。
破邪の法
1.刀(かたな)。右手の中指と人差し指を伸ばし、親指でほかの指の爪を隠すようにします。
2.右手でつくった刀は、左手の鞘(さや)に収めます。
※九字を切るときは、まず2の状態にします。そして、左手の鞘から勢いよく右手の刀をぬき、九字を切ります。
- 「オン キリキャラ ハラハラ フタラン パソツ ソワカ」
こちらのほうは、一度切った九字を解除するときに使う呪文です。
蘇婆訶・薩婆訶(そわか)
呪術の末尾に添えることで「~になりますように」という願いを込めた術へ変化します。
呪文の番外編として、陰陽師が毎朝、朝日に向かって唱えていたとされる呪文、というよりは言葉の呪符のようなものがあります。
(がんちゅうこしん、はちぐうはつき、ごようごしん、おんみょうにしょうげんしん、がいきをゆずりはらいし、しちゅうしんをちんごし、ごしんかいえい、あっきをはらい、きどうれいこうしぐうにしょうてつし、がんちゅうこしん、あんちんをえんことを、つとみてごようれいしんにねがいたてまつる)
この呪文のおおまかな意味は「自分の生活を律して四柱神の加護のもと心身を神にささげ(聖別)、五陽霊神に願い奉ります」となります。種々の災難をしりぞけ、幸いをもたらす言葉のお守り・言霊として唱えられます。
先に述べた呪文が、「護身・退魔(お祓い)」あるいは「自らのため」で放つものすれば、これから紹介する呪術は、その名の通り、呪う術であり、受け身ではなく、攻撃的なものです。
蠱毒(こどく)
壺などの器の中に、ヘビ、ムカデ、ゲジゲジ、カエルなどの百虫を閉じ込め、互いに共食いをさせて勝ち残ったものを「神霊」として祀り、その毒を採取して呪詛(呪い)の対象者に飲ませていました。蠱毒を利用して毒殺し、その人の役職や遺産などを奪っていたので、暗殺といえます。蠱毒は何度も禁止令が出ましたが、それほどに恐ろしい効力があったといえます。
ですが、「毒」を使用する前に、手間暇掛けた恨み辛みを込めた作業が絡んでいるので、呪術大成、すなわち成功への見えない力(邪心)が宿っているともいえるかもしれません。
類感呪術/模倣呪術
アイツを呪ってやる!
誰もが一度は抱いたことのある感情ではないだろうか。「呪術」とは人知を超えた方法で意図する現象を起こそうという試みであります。
英語では「Magic」。イギリス人の人類学者J・フレーザーによれば「呪術」は超自然的霊格をコントロールすることで目的を達成しようとするもの、「宗教」は霊格に対して懇願するものであるとして両者を区別しています。
国家や自身の宿命を知るための「占術」と同じく、日本に限らず世界各地で呪術的行為は行われてきた。ある部族では日照りが続けば水をまき、太鼓を叩いて雨乞いの儀式を行う。これは降雨と雷鳴を真似る「類感呪術/模倣呪術」と呼ばれるものであります。
日本でも五穀豊穣や健康を祈願する儀式や祭りは古くから行われてきた。正月に行われる神奈川県「大磯の左義長(さぎちょう)」もそのひとつであります。
エセノカミサン(道祖神)の火祭りで、その年の恵方に向かって火を燃やす。その火で団子を焼いて食べれば風邪をひかない、松の燃えさしを持ちかえれば火除けになるといわれている。「左義長」の祭りは日本各地にあり、一般に正月の14日夜ないし15日朝に行われ、「どんど焼」の名でも有名であります。また盆と同じく鎮魂祭としての意味もあるといいます。
丑の刻参り
また他人を呪うために対象の毛髪や衣服、あるいは人形(ひとかた)に火をかけることも類感呪術のひとつである。これは「丑の刻参り」が一般的に良く知られている。
もともと『宇治の橋姫』の伝説において、夫の後妻に嫉妬した橋姫が鬼となって相手を殺そうと京都の貴船神社にて7日間の丑の刻参りを行ったのが原型とされる。決してそれを見てはならないし、気付かれた場合、呪術者は相手を抹殺しなければならないという決まりもある。また、陰陽師が鬼となった橋姫を祓うために人形を使って祈祷を行うという話もあった。
このように呪術には善と悪の両方があり、
前者の左義長のように雨乞いや健康祈願など社会や人のために行う呪術は「白呪術」、それに対して丑の刻参りのように悪意を持って人を苦しめる呪術を「黒呪術」と分類している。
密教においては五大明王などを本尊として法を修して悪に打ち勝つことであり、陰陽師として有名な安倍晴明もその手の話には事欠かないのです。
呪術によって結界を張って人を守ったり、魔物を調伏したという伝説は語り継がれることになりました。
一説では、晴明が子供の頃、賀茂忠行(かものただゆき)に弟子入りしていたときに、師の忠行より先に「百鬼夜行」が内裏に迫るのを察知できたということです。
このように悪しき呪いに対抗するための方法であります。
言霊
昔から日本には「言霊」という表現がある。ひとつひとつの言葉には霊や力が宿っていると感じ、言葉で物事を縛るのです。
「人を愛おしい」という気持ちで縛れば「愛」となるが、憎しみで縛れば呪詛となる。日本で最初に言霊という言葉が見られるのは奈良時代のことであります。
歌人・山上憶良(たまのうえのおくら)は『万葉集』のなかでこんな長歌を残しました。
『そらみつ 倭(やまと)の国は 皇神(すめがみ)の 厳(いつく)しき国 言霊の 幸(さき)はふ国と 語り継ぎ 言い継がひけり』
これは、「大和の国は天皇が統治する由緒ある国である。言霊の幸ある国として語り継がれてきたのだ」という意味であります。
そこには中国とは異なる日本という国家意識と、独自の日本語という言霊が宿る霊性を表現しているとも感じられます。
般若心経
代表的な例は『般若波羅蜜多心経』であり、300文字足らずの短い経典ながら大乗仏教の極意が凝縮されているとされ、弘法大師・空海もその内容を評価しているようです。
特に霊的な力を感じさせる呪文が最後の『羯諦羯諦(ぎゃていぎゃてい)、波羅羯諦(はらぎゃてい)、波羅僧羯諦(はらそうぎゃてい)、菩提薩婆訶(ぼじそわか)』。
これはサンスクリット語を音写したものでありますが、簡単に訳すと「彼岸に行ける者よ、幸あれ」ということで、詳細は山田無文(むもん)老師などが残した解説本があるので調べてみるのもいいのではないでしょうか。
呪術とは大まかに言うと、人間の根源的な行為なのかもしれないですね。
それを証拠に、縄文時代の遺跡において既に呪術の痕跡を見ることができます。
目に見えないものを想像して具現化する力は人に授けられた最大の能力で、人間を人間たらしめているといえるでしょう。
(アマテラスチャンネル49、草の実堂 密教大辞典 岩波仏教辞典 引用 参照)