氣の施術師だからこそわかる氣と心、健康的な人生を過ごしていくために大切なこと。少しずつお話しています。
お盆の話 幽霊と化け物

お盆の話 幽霊と化け物

お盆のお客様は(仏・ほとけ)様です。

日本では昔から、春と秋の二回、ご先祖様の霊がこの世の肉親のもとにお帰りになる、と信じておりました。

春と秋と申しましても、これは旧暦時代のことでありますから、現在の季節とは少々差がありますが、仏教では、お正月とお盆に御先祖様の霊をお迎えするための行事が、昔から行っておりました。

今でもお正月、春、秋のお彼岸など、ご先祖供養やお寺や各ご家庭でいとなわれておりますが、お盆のご法要も重要な行事のひとつで、お盆の期間の数日にわたり、ご先祖様の霊が肉親のもとにとどまる、という信仰があります。

現代の家庭のお盆供養は、ずいぶん簡略化されているようですが、そのことよりも気にかかるのは、お見送りする間のご家族のいとなみが、とかく形式に流されがちになってしまったということです。昔ながら精霊棚を作り、ナスやキュウリの牛や馬を並べ、ごちそうをお供えする、というだけではご先祖様の霊が満足してくださるかわかりません。
御先祖様が何よりもごらんになりたいのは、あなたのご家族が一人残らず健康で、お互いに仲良く協力し合って共同生活をしておられるありさまなのです。

どこのご家庭にもありがちなことですが、お客様が知人、友人の場合は、玄関先や客間だけは掃除しておく、みっともないものはみんな奥に隠してしまうため、居間やキッチンは、まるでごみ置き場同然になったりするのです。

ところがお盆のお客様は、そういうごまかしではお迎えできません。
もとは同じ屋根の下で一緒に暮らした肉親であっても、今では霊であり、仏様なのです。お家の中の隅から隅まで、ご家族ひとりひとりの心の奥の奥まで、すべて見つめていらっしゃるのですから、見られたくないものを寝床の下に突っ込んで目に触れないようにしたり、口から出まかせの嘘をついたりしても通用しません。そんなことをすればご先祖様を悲しませるだけです。

そういう意味では、お盆は、あなたの家族全員の生き方、暮らしぶり、心の持ちようなどが、ありのままに仏様の前にさらされる機会、と考えても良いでしょう。代々のご先祖様に対して恥ずかしくない家庭づくりに務めていただきたいものであります。

 

 

浮き世か憂き世か

 

『うきよ』という言葉を辞書で引くと『浮き世』になっています。ところが、辞書に出ていないもう一つの当て字があって、ことらは『憂き世』と書くのです。『浮き世』の解釈を読むと、頼りになるものが無く、はかない世の中とか、辛い苦しい世間とか、現世についてまことに否定的です。『浮き世』は、漢語の『浮世(ふせい)』がもとになってできた言葉で、これに仏教の考え方が含まれるようになりました。仏教的ないい表し方をするならば、『憂き世』と書くのが適切なのかもしれません。
江戸時代に入ってからのことですが、『浮き世』を『浮かれ世』とする傾向が出てきました。

『浮世絵』『浮世草子』などという使い方をするときは、現実の世をあまり深刻に受け止めず、浮かれて自分の身がふわりと雲の上に漂うような楽しい気分を表しているのでしょう。

しかし、浮いて漂っている境遇は、いいかえれば、不安定な状態です。どっしりと安定した境遇ではなく、中途半端でどっちつかずのありさまなのです。

現実、この世は『浮き世』であり『憂き世』でもある。楽観的になり過ぎず、悲観的にもなり過ぎない。そういう生き方を心がけてはいかがでしょうか。

浮き世の義理とか、しがらみとか、そういう煩わしいモノから自分を解放し、浄土に行って、成仏する。それが、日本人の正しく仏教を信仰する人々の理想なのです。

 

 

幽霊と化け物 現世と来世

 

夏は怪談の季節ですね。そう言われておりましたが、この頃は一年を通じて気味悪い話・不思議な話、こわい話を、テレビやドラマの中で見たり聞いたりできるようになっています。けれどもその話のもとは、昔からの言い伝えや、お年寄りの体験談などで、現代風に仕立てられていても、幽霊や化け物の姿かたちは、大きく変わってはいないように思われます。

 

幽霊とは死んだ者が行くべきところに行けず、(成仏できず)姿を現したもの、さまよっているありさま、死者の霊が現れたものの解釈でよいと思います。

この世に未練が残っているために、肉親の前に現れるのだと言われています。
特定の人に恨みがあるかどうかには関わりなく、単に我が子のことが気にかかるので、幽霊になって出る、というような母親の話もあるのです。
つまり、特定の人や場所にひどく執着していて成仏できない霊を『幽霊』というのでしょう。

そこで、幽霊の出る場所でご供養を行い、故人が安らかに成仏できるようにして差し上げることが必要になります。

 

化け物は妖怪とも言い換えられます。妖怪とは、人間の理解を超える奇怪で異常な現象や、それらを起こす不思議な力を持つ非日常的・非科学的な存在のことなのです。
「妖(あやかし)」「物の怪(もののけ)」などとも呼ばれています。
主に人間以外の動物や物から変化したもので、特定の場所から出現し、誰でも見境いなく脅かすとされています。

特定の人や場所にこだわらず、人間社会に対していろいろの働きかけをする怪しいもので、人を脅したり苦しめたりすることもありますが、逆に人助けをする場合も無いとは言えません。

動植物や無生物が人の姿をとって現れるもの。キツネ・タヌキなどの化けたものや、柳の精・桜の精・雪女郎など。また、一つ目小僧・大入道・ろくろ首などあやしい姿をしたもの。お化け。

古代では、自然物にはすべて精霊が宿っていると信じられてきました。人の力の及ばない自然災害などは、人間を超越した存在のせいにすることで説明されてきたと考えられています。

人助けをする化け物という話では、たとえば、キツネは人間を化かすだけでなく、捨てられた子を育てた、という伝説もあります。

 

いずれにしても、幽霊や化け物は、人騒がせな存在ですから、お盆には私たちは、万霊供養を怠ってはなりません。

一部の地方では、お盆に町や村の四つ辻か、または川原で、精霊をお迎えするしきたりがあります。
これは、四つ辻をあの世とこの世の分かれ道に見立て、川のこちら側の岸を現世、向こうの岸を来世にたとえる信心から生まれたものだということです。よいところに行けますように、との願いを込めて四つ辻に石仏を安置したり、橋のたもとにささやかなお堂を立てたりするのも、同じ心のあらわれなのでしょう。
幽霊にしろ、化け物にしろ、それは、この世の私たちがご供養しなくてはならない霊の仮のお姿なのでしょう。
御先祖様を、さらに万霊を真心こめてご供養いたしましょう。

 

 

夏のことわざ

知っていると役に立ちそうなものを紹介します。

 

夏の虫 氷を笑う
狭い世界しか知らず、無知である様子を表しています。夏の間に寿命が尽きる夏の虫は、冬を知りません。そのため氷の存在を
笑って信じようとしないことをたとえたことわざです。

 

冬編み笠に夏頭巾

物事がさかさまであることのたとえ。冬には頭巾を、夏には編み笠をかぶるのがふさわしいのに、その反対をするという意から。

 

戴くものは夏も小袖

欲の深いたとえ。貰える物なら、その季節に不要な綿入れでも何でもよいという意から。『貰うものは夏も小袖』ともいう。

 

飛んで火に入る夏の虫

自分から進んで危険や災難に関わりあうことのたとえ。明かりにつられて飛んできた夏の虫が、火で焼け死んでしまうという意から。

 

仕事幽霊飯弁慶 そのくせ夏痩せ寒細り たまたま肥ゆれば腫れ病

仕事はできないのに飯は山のように食べ、夏も冬も痩せていて、たまに太ったかと思えば病気にかかっている。怠け者の大食漢の多病をあざけった言葉。

 

夏は日向を行け 冬は日陰を行け

夏にあえて暑い日なたを、冬にあえて寒い日陰を行くように、進んでつらい道を求めて身体を鍛錬せよということ。

 

夏歌うものは 冬泣く

働けるときに働いておかないと、あとで暮らしに困るというたとえ。夏に歌など歌って遊び暮らしているものは、冬になって蓄えが無く、飢えや寒さに泣く羽目になるという意から。たしか、グリム童話のアリとキリギリスも同じようなことでしたよね。

 

 

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