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気をめぐる諸理論

気をめぐる諸理論

ウィキペディアでは、(き、KI、Qi)とは、中国思想道教中医学漢方医学)などの用語の一つ。一般的に気は不可視であり、流動的で運動し、作用をおこすとされている。しかし、気は凝固して可視的な物質となり、万物を構成する要素と定義する解釈もある。宇宙生成論や存在論でも論じられた。とあります。

 

陰陽道でも思想で最も根本にあるものは『気』では無いでしょうか!
『気』についての考えが膨らんできます。『気』の思想のことであります。

『気』とは気功の気であります。さて、『気』とは何かというとこのことを調べていても、とても難しい問題ということがわかり、まとめるのが大変ということが解りました。

(大漢和辞典の『気』のところを見ると、実に17種類の意味が挙げられてあります。
最もその幾つかは日本で陰陽道が成立してから後の時期に中国で増えた意味なので差し引かなければならないのだが、それでも『気』が多様な意味を持つ言葉には間違いはないです。

 

中国思想上の概念として『気』という言葉を解釈した場合、思想史的にはさまざこの世界のまな概念が紀元前後まで出てきています。そのなかでも後に支配的になった概念は『気』という存在がこの世界のすべての物事を成立させているという考え方であります。
このような『気』の考え方がはじめからあったわけではなく、はじめの頃にはただ物質的存在『物』を作ってい基本的な存在が『気』であると考えられていたのであります。
たとえば、中国戦国時代の人で老子と並び称される道家の荘周(前四世紀)の書とされる『莊子』には次のように記されています。

生は死の仲間、生は死の始まりであって、誰がそのあり方を知っているのであろうか。人が生きるというのは気が集まることであって、(きが)集まればつまり生きることになり、散ってしまえばつまり死ぬのである。もし、死と生とが同じ仲間であるのならば、私は(生死のことについて)何を思い悩むことがあるだろうか。つまり、万物は同一の存在なのである。(『知北遊篇』原文の漢文を補足しつつ訳しました。)

つまり、ものの生死というのは『気』の集まり方に左右しているものだとしており、それは全ての存在(万物)が『気)にとって作られていることなのだと説いております。また、同じく中国戦国時代の人で、性悪説を説いた儒家の荀況(じゅんきょう)(前298~前238?)の著とされる『荀子』には、このように説かれている。

 

水や火は気によってできているが生命を持たない。草木は生命を持っているが知(知覚)を持っていない。獣は知を持っているが義(道理)を持っていない。人は気を持ち、生命を持ち、知を持ち、またかつ義を持っている。つまり最もすぐれた存在なのだ。(『王制篇第九』原文の漢文を補足しつつ訳しています。)

これは無生物、植物、動物、人間、の順に、この世界に存在するものの共通点と特徴を示したもので、植物、動物、人間のような存在は、水や火のような存在と同様に『気』によってできているが、その違いは生命を持っているか持っていないかにあると説いている。つまり、火や水は非生命的存在の代表として挙げられているのだが、生命的存在も非生命的存在もともに『気』という存在からできていることには変わりはないということなのである。

 

『陰陽』と『五行』をつなぐ『元気』

これらの『気』についての思想は先に記したように『気』の物質的存在つまり『物』を作っている基礎的存在としており、それ以外の行為や現象のような非物質的存在をも含めた存在の元となるのは『道』(どう)だとか『太一』(たいいつ)だとかと呼んでいた。

この『道』とか『太一』というのは、状態や場(ものごとが作用する環境)と言うべき存在で『気』とはそのような根本的な存在から形成されたものだと考えられていた。この場合の『気』とは現在で言うなら全ての物質を構成する元素のような物体的な存在だと考えられていたことになる。

このような『気』が物質的存在・非物質的存在に限らずすべてのものごとの元だとされる思想が生まれた。そのような思想においては、すべてのものごとの元となる『道』や『太一』と同一とされる『気』を特に『元気』と呼んだが、非物質的存在までをも含めたすべての存在の元となれば、『気』を元素のような物体的な存在とは扱うことはできない。つまり、この『元気』というのが出てきた時点で、『気』とは力であると考えられるようになった。

人の様子を見るときに『元気がある』だとか『元気がない』だとか言うあの『元気』というのは、この『元気』なのである。
つまり、その人の元となっている力がその人の『元気』なのであり、『元気がある』というのは、その人の存在の元となっている力が充実していることであり、『元気がない』というのは、その力が失われていることなのだ。
もう少し言えば、『元気があり余っている』というのは、力が充実しすぎてその人の枠内に収まらないことであり、したがってハメを外したりして大目玉を食らう事になってしまうのである。逆に、『元気がなさ過ぎる』ということになると、その人そのものを維持する力が失われているのであるから、甚だしい場合には死を迎えてしまうということになる。
人の『元気』は、適当なところで維持することが大切なのである。

 

さて、ちょうどこの『元気』の思想が生まれた頃には、それまでゆるく関連付けられてきた『陰陽説』や『五行説』が世界の形成・変化の思想として強固に結び付けられて行っている。
実は『陰陽説』と『五行説』との結びつきを果たす仲立ちになったのが『元気』の思想なのである。つまり、『陰陽』も『五行』もともに『元気』から形成された『  』の性格だとされ、初め一つであった『気』の性格が二つに分かれて『陰陽』となり、それがさらに五つに分かれて『五行』になったのであって、この『陰陽』や『五行』がすべての存在の性格を決定しているのである。この思想において、はじめに存在したまだ分かれていない『気』が、すなわち『元気』だと説かれ、『陰陽』も『五行』もともに『元気』から形成された性格なので、互いに変換することができるのだとされていたのである。

 

この思想は七世紀には日本の指導者層のなかにしっかりと根づいており、日本も『気』の中に存在するのだということになった。それは『古事記』の冒頭に次のようにあることからもわかる。

混沌とした元気が固まり始めたのに、形と質がまだ現れない・・・・しかしながら天地が始めて分かれて、日本を作った三柱の神『天之御中主神』(あまのまなかぬしかみ)・『高御産巣日神』(たかみむすびのかみ)・『神産巣日神』(かみむすびのかみ)の生まれる端緒となった。

(古事記 上巻、序章一段。原文の漢文を補足しつつ訳しました。)

 

(陰陽道 呪術と鬼神の世界 鈴木一馨 参照、引用)

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