陰陽師といえば安部晴明の名がまず第一に思い浮かぶ方が多いと思う。平安時代の生霊や怨霊が生まれた時代、
彼は、「式神」と呼ばれる十二の鬼神を自在に操り、占術をもって闇を見抜き、呪術をもって魔を除き、
悪念や悪霊のうごめく闇を制御し た。
神格化され、伝説にのみその姿を現す。陰陽五行説の壮大な宇宙論を展開し、天変地異を予測して国家の安泰を
司っていた。
怖ろしい闇の世界に君臨した陰陽師安倍晴明とは、一体どんな人物だったのだろうか。
どこを調べても晴明に関する伝記資料はほとんどありません。
『尊卑分脈・そんぴぶんみゃく』に、天文博士であることや、官位が従四位下(じゅしいか)であったことなどが記されていますが、その他には祭祀を執り行った記録が数件あるぐらいで平安時代に記されているものは何もないのです。
晴明のその生年ですら、没年から推定されているにすぎません。『土御門家記録・つちみかどけきろく』には、寛弘二年(1005)九月二十六日、八十五歳で他界したとあることから推測して延喜二十一年(921)に誕生したと考えられているようです。
しかし、この没年さえも絶対であるとは言いきれません。様々な伝記、説話などには時代的にはとっくの昔に他界している筈の晴明が登場しているものも見られます。さらに青年とされる九百二十一年以前の話もあるのです。
安倍 晴明(あべ の せいめい/ はるあき/ はるあきら、延喜21年1月11日〈921年2月21日〉 – 寛弘2年9月26日〈1005年10月31日〉)は、平安時代の陰陽師。
延喜二十一年(九二一)に生まれ、寛弘二年(一〇〇五)に 亡くなったと言われている。『尊卑分脈』や『安倍系図』等に よれば、右大臣安倍御主人から九代目の大膳大夫益材の子と言われ、享年八十五と記されている。
「晴明」を「せいめい」と読むのは有職読みであり、本来の読み方は確定していない。鎌倉時代から明治時代初めまで陰陽寮を統括した安倍氏(土御門家)の祖。官位は従四位下・播磨守。
晴明の系譜は明らかでないが、大膳大夫・安倍益材(あべのますき)あるいは淡路守・安倍春材の子とされる。
各種史書では『竹取物語』にもその名が登場する右大臣阿倍御主人の子孫とする。ほかに、阿倍仲麻呂の子孫とする説話、あるいは、一部の古文書では安倍朝臣晴明ではなく安倍宿禰晴明と記載されるものが散見されること、また当時は「朝臣」を「宿禰」の上位に厳格に位置づけており、朝臣姓の子孫が宿禰姓となることは考えにくいことから、阿倍御主人の子孫である安倍朝臣姓の家系ではなく、同じく阿倍氏の一族である難波氏(難波吉士、のち忌寸、宿禰)の末裔ではないかとする説もある。
とはいえ、すべては晴明の死後、数百年の後の著作なのです。そしてそれらは伝記であり伝説、説話であって人々の想像の中で生まれたのかも知れません。
でも、その想像が実話以上に本当らしい話を作り上げてしまっていることもあります。また、多くの陰陽師たちが、清明の伝説を語ることで、清明の実像が出来上がってしまったということも考えられます。
いろいろな諸説や本より解釈が変わります。私なりに調べてまとめたものを書き記しておきます。
晴明の超人的な才能が開く
晴明は、賀茂忠行を師とし、幼少の頃より陰陽道を学んでい た。『今昔物語集』に若い頃の晴明の様子が伝えられている。
ある夜、忠行の供をして歩いていると、晴明が鬼が歩いてくる事に気付き、そのお陰で忠行の一行は難を逃れたと言うものである。この事があってからと言うもの、忠行は晴明を手放しがたく思い、陰陽道の全てを彼に教えたという。幼い晴明の目に鬼が見えた事で、晴明の超人的な異能の力を見抜き、術の全てを教え込んだのだ。忠行が晴明の天性にいかに惚れ込んでいたかが分かる一節である。
「此道ヲ教フル事瓶ノ 水ヲウツスガ如シ」。つまり、瓶の水を、そっくり他の容器に移すように教えたというのである。このおかげで、晴明はこの道で大変尊い存在になった。未来や前世など、闇の世界を見抜く晴明の眼は尋常のものではなかった。
中世において、晴明の験力を伝える神秘的な説話は、色褪せることなく、様々な本に伝えられている。それらは、「説話を廻る」の頁に記載したので、詳しくはそちらを参照されたし。
晴明は、賀茂忠行と、その子の保憲に天文道を学んだ。保憲は、晴明に天文道を授け、子供の光栄には暦道を授けた。以後、それまで賀茂氏が独占していた陰陽道は、安倍家(土御門家と称する)が天文道、賀茂家が暦道と、二流に分かれて受け継がれる事となる。
安倍家は闇の世界を統率した謎と神秘に彩られた伝説的大陰陽師安倍晴明を、賀茂家は他人の見る夢の中まで侵入したという超人吉備真備をそれぞれ開祖としている。
江戸時代、土御門家は陰陽師の実権を握り「土御門神道」を成立した。この土御門神 道の思想は、各神道の成立に大きな影響を与えるまでに至った。
ちなみに源流である 賀茂家は、室町後期から次第に衰退の一途を辿り、江戸時代になると、土御門家に 「暦」の発行権を奪われ、それ以後、土御門家の天下が続くこととなる。
しかし、土 御門家も、明治維新以後、陰陽道を廃止しようという世の動きより、明治政府に暦の 発行権を奪われ、結局力を失い、陰陽道は歴史から姿を消すことになる。明治以降、 働く場所を失った陰陽師は、一般社会へと下ることになる。
それまで、最高国家機密 として処されていたものを、その陰陽師達が各地で、暦・吉祥占い・方位学等を教え たのが民間陰陽道として広がり、現在に至る。現在の九星占い・四柱推命等は、陰陽道の遺産と言えるものである。
謎に包まれた一生
『ほき抄』や『安部晴明物語』などによれば、清明は狐の子として生まれています。幼いころから人並外れていた才能がめきめきと頭角を現してゆくさまが、多くの説話に取り上げられています。幼少時代の彼を語る説話には次のような話があります。
ある日、清明はカラスの会話を聞いて天皇の病気を知り、都にのぼります。そして陰陽師の力量をいろいろ試されたのち、天皇の病気の原因をみごと言い当て治癒させた功績で、無名の少年安部童子は、一気に天才少年として名を馳せることになったのです。この力量ためしが、やはり多くの説話やお芝居にも語られる蘆屋道満との力くらべです。頃はちょうど三月の節、新暦でいえば、四月五、六日、にあたるこの日は、『清明』または『晴明』といわれています。そこでこの日の名称を名前に賜り、以来、安部晴明と名乗るようになったと伝えられています。
そしてこの日から、国家の官僚として歩み始めた晴明、その仕事ぶりを垣間見てみると、
天元二年(979)花山天皇の命令で那智山の天狗を封じる。『禅林応制詩』。永観二年(984)七月二十八日、円融天皇譲位の日時を「来月二十八日」と答える「小野官右府記』。寛和元年(985)四月十九日、藤原実資(ふじわらのさねすけ)のお産のために解除を行う『小右記』。
異常の三件は、記録にあらわれる最も早いものを並べたに過ぎません。以後晴明がどのような仕事をしたかは予想されるでしょう。すなわち晴明は、天皇や貴族に関するさまざまな予見をし、雨乞い、火災除けなどの祀りを行い、建設に際しても場所や日時を示したと記録されています。
また、病人の延命を頼まれ、命を救うこともあります。これについては、生類の寿命を司る泰山府君の神に祈りを捧げて延命を乞う儀式をすると云われています。記録によれば晴明は、寛和二年、(986)永延三年(989)にこの祭祀を行っています。『禅林応制詩』・『小右記』。
さて、晴明に関する記述の中でもっとも年代が古いのは、次の話ではないでしょうか。
鴨長明(かものちょうめい)歌論書『無名抄』に、晴明が歌人・在原業平(ありわらのなりひら)(825~880)の家を封じたので、以来長く業平の家は火災に遭わなかったと記されています。この話が元になって、晴明が防火や鎮火の神として祀られるようになったと考えられています。この事件が実話であると仮定すれば、晴明は早ければ七百四十年ごろ、遅くても八百七十年には生まれていたことになります。
もっとも年代の下るものとしては次の二つの話が挙げられます。『古事談』には、法成寺(ほうじょうじ)建立の際、道長を助けた話が載せられています。
同様の話が『宇治拾遺物語」にも収録されていますが、1,020年頃の話だということになります。法成寺の建立は、1020年、話の中に登場する顕光は1022年に死んでいます。ですから、事件は1020年を下ることはできないのです。
もう一つは、『ほき抄』の「由来」に収められています。
近衛天皇が玉藻前(たまものまえ)を皇后にしたとたんに病気になったので、陰陽博士・安部光栄に占うよう命じられましたが、光栄は晴明を推挙したと記されています。これは、『御伽草子』を典拠として、様々な芸能にも展開された著名な話であります。もっとも『御伽草子』では、玉藻前(たまものまえ)は鳥羽上皇の女御(じょご)であり、占うのは晴明の子孫・安部泰成となっており、時代背景がまったくことなっているのですが・・・・・『ほき抄』を信じれば、晴明が近衛天皇と関係を持っていたことになりますが、近衛天皇の在位は1141年から1155年です。つまり、この説話は、1,150年頃の出来事となるのです。
晴明は300年以上生きた
これら、すべての伝説や説話の仮定を信じれば、最も早くで740年頃生まれ、1140年以降に死んだことになります。つまり、晴明は300年以上生きていたという計算になってしまいます。
そこで次のような伝説が生まれたのかも知れません。『真如堂縁起』では、晴明は、921年に一度八五歳で没しましたが、閻魔庁で命を貰いなおしたため、再び再び85年生きたと語られています。つまり、921年というのは、晴明の二度目の誕生年だというのです。逆算すれば、一度目の誕生年は、836年ということになります。
ほかに、『安部晴明伝記』『安部晴明一代記』などでは、晴明が道満に首を切られて死に、唐の伯道上人によって復活を遂げるという説もあります。
あまりにも秀でた才能をもっていたがゆえに、人々に語り継がれるうちに晴明の人生そのものが独り歩きをしてしまったであろうか。それとも晴明は死ぬことも無く今でも生き続けているのでしょうか。
彩られた天才の陰陽師「化生の者」・出生の秘密
『大日本史料』所引の『讃岐国大日記』や『讃陽簪筆録』によると、晴明は讃岐国の人だという。しかし、大阪市阿倍野区にある安部晴明神社は晴明を祭神として祀り、社の前には「安倍晴明生誕伝承地」の標柱が建っている。
晴明誕生の地については明確ではないが、彼が生前に行った数々の陰陽術故の事か、誕生について化生のものとしての伝説が成立していった。『臥雲日件録』に、晴明の事を「化生の者」と記されているくだりがある。
一番伝説の中で有名なものは、晴明の父が狐を助けた事から、その狐は父の妻となり、生まれた子が晴明だとするものである。この、晴明は狐の子、と言う伝承は、芸能の世界にも残されており、有名なものとしては、古浄瑠璃『しのたづまつりぎつね 付 あべノ晴明出生』(延宝二年(一六七四))が挙げられる。他にも同様な話が見られる事から、晴明が狐の子であったという話は、そうとう古い時期から伝承されていたものと思われる。
※『信田妻』物等では、名前を「清明」とする。
経歴について
921年(延喜21年)に摂津国阿倍野(現・大阪市阿倍野区)に生まれたとされる。また、生地については、奈良県桜井市安倍とする伝承もある。幼少の頃については確かな記録がないが、陰陽師賀茂忠行・保憲父子に陰陽道を学び、天文道を伝授されたという。加茂氏の門下生であり、のちに両家は二大陰陽家となる。
948年(天暦2年)大舎人。960年(天徳4年)40歳で天文得業生(陰陽寮に所属し天文博士から天文道を学ぶ学生の職)であった晴明は村上天皇に占いを命ぜられており、出世は遅れていたが占いの才能は既に貴族社会で認められていたことが伺える。
50歳頃、天文博士に任ぜられる。貞元2年(977年)、保憲が没した頃から陰陽道内で頭角を現す。陰陽寮を束ねる陰陽頭に就任することは無かったが、位階はその頭よりも上位にあった。
979年(天元2年)、59歳の晴明は当時の皇太子師貞親王(後の花山天皇)の命で那智山の天狗を封ずる儀式を行う。
このころから花山天皇の信頼を受けるようになったらしく、記録にしばしば晴明が占いや陰陽道の儀式を行った様子が見られるようになる。花山天皇の退位後は、一条天皇や藤原道長の信頼を集めるようになったことが、道長の日記『御堂関白記』などの当時の貴族の日記から覗える。そのほか、『小右記』によると、正暦4年(993年)2月、一条天皇が急な病に伏せった折、晴明が禊(みそぎ)を奉仕したところ、たちまち病は回復したため正五位上に叙された。
また、『御堂関白記』によると、寛弘元年(1004年)7月には深刻な干魃が続いたため晴明に雨乞いの五龍祭を行わせたところ雨が降り、一条天皇は晴明の力によるものと認め被物(かずけもの)を与えたことなどが記されている。
陰陽師として名声を極めた晴明は、天文道で培った計算能力をかわれて主計寮に異動し主計権助を務めた。その後、左京権大夫、穀倉院別当、播磨守などの官職を歴任し、位階は従四位下に昇った。さらに晴明の2人の息子安倍吉昌と安倍吉平が天文博士や陰陽助に任ぜられるなど、安倍氏は晴明一代の間に師である忠行の賀茂氏と並ぶ陰陽道の家としての地位を確立したのである。
(Wikipedia参照)