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祟り(たたり)の構造①

祟り(たたり)の構造①

崇徳天皇は、保安4年に即位した第75代天皇である。系譜上は鳥羽天皇の子供とされているが、実際は曽祖父である白河法皇と母の璋子の密通によりできた子供で、そのため鳥羽天皇からは疎まれていた。天皇に即位した後も、兄弟の近衛天皇に譲位を迫られ天皇の座を追われた。

白河法皇の死後、鳥羽天皇が上皇となり院政を開始。近衛天皇の崩御後、崇徳は自分の息子を即位させようとしたが、「崇徳が近衛天皇を呪い殺した」という噂を流され、それを聞いた鳥羽上皇は激怒し、後白河を天皇に即位させた。

怨霊の都
京都盆地の西北部、桂川西岸に位置する長岡郷は、練達の風水師たちが選び抜いた最上の『竜穴(りゅうけつ)』瑞相の地であった。にもかかわらず、桓武(かんむ)は長岡京を捨てた。

桓武は何におびえたのか?
まずは、宮跡から出土された多量の『人形(ひとがた)』に注目しよう。
この人形は、五寸から等身大まで、大・中・小の木(または鉄、錫)の組み合わせからなり、これで身を撫で、気息を吹き付け、罪穢や災厄を移す神事、『祓(はらえ)』に用いられた。
祓とは、『払え』で、本来刑罰である。
アマテラスに悪事を働いたスサノオに対し、高天原の法廷が巨額の罰金(騰物・あがもの)として『千座置戸(ちくらのおきど)』を負わせたという神話に由来するもので、宮中大祓の儀で、『祓物(はらえもの)』と称して木綿・麻布などを供える風習はその名残りである。
ちなみに、現在六月、十二月に行われる『節折・よおり』(通常の大祓)では、人形のかわりに篠竹が用いられている。
興味深いのは、ここで奉ぜられる祝詞(のりと)の中身で、スサノオが高天原で犯した九項目の罪状、『生剥・いけはぎ』(生馬の皮を剥ぐ)『屎戸・くそへ』(汚物をまき散らす)などが『天つ罪』として述べられ、つづいて人間界の犯罪『国つ罪』が事細かに懺悔される。
その罪とは『生肌断ち』(生者殺傷)、『死肌断ち』(死体損壊)、『白人・しろびと』(皮膚病)『瘜・こくみ』(コブ、イボ)、『おのが母犯せる罪』、おのが子犯せる罪』、『母と子と犯せる罪』(女と通じた後その娘と通じる罪)、『子と母と犯せる罪』(娘についで母親も犯す罪)、『畜(けもの)犯せる罪』、『昆虫の災』(害虫被害)、『高つ鳥の災』(鳥害)、『畜仆し・けものたふし』(他人の家畜殺し)、『蠱物(まじもの)せる罪』(呪詛)である。
あのおごそかな祝詞が、近親相姦だの、上通下通姦(おやこだわけ)だの、馬姦(うまたわけ)、牛姦(うしたわけ)、鶏姦(とりたわけ)などといやうやしく並べたてるのが面白いが、ようするに、自然災害を含めた諸悪は、人間界の不浄に発した罪であり、これを神々に謝罪し罰金を払って保釈される儀式が大祓であり、天皇贖罪(てんのうしょくざい)なのだ。
これが慣例化したのは、延暦十三年(794)の平安遷都からといわれるが、桓武天皇がその十年前から何かに憑かれたように祓っていたことは明らかなのである。
『不浄・けがれ』を最大の罪悪として忌避する。
『キヨメ』の心性は日本人固有の美徳である。その美徳が、桓武天皇の場合、病的な強迫観念に屈折して行くのである。
祓っても祓っても、なおまとわりつく不浄とは何だったのか。
廃都から現れた大量の祓えの人形(ひとがた)を見ていると、朽ちたその端々から桓武天皇のおびえが伝わってくるようだ。
桓武は光仁天皇の子である。
光仁は、道鏡おろしで六十過ぎで即位した天皇だが、この老帝があるとき奥さんの井上皇后と賭け事をして、『朕が勝ったら若い女をくれ、おまえが勝ったら”さかりなる男”をやろう』と約束した。
で、結局、皇后が勝ってせしめた景品が、山部親王(やまべしんおう)、つまり桓武だったのである。
息子を賭けるとはまた酔狂な天皇だが、これにはまたまた藤原がからんでいる。賭けを仕掛けたのは藤原百川(ふじわらももかわ)だったらしい。れいの称徳臨終の場にうろちょろしていたあの百川だ。光仁も擁立されたてまえ逆らえなかったのかも知れないが、百川は、皇后と『さかりなる男』の橋渡しまでしている。
ただ桓武は、光仁が若い頃に和新笠(やまとのにいがさ)という百姓系の妃に産ませた子だから、義理の母にあたる井上皇后と、『源氏物語』さながら密通することを『国つ罪』と考えるか否かは本人しだいだろう。
問題はそのあとだ。
百川のねらいは、光仁=井上の嫡子で、すでに東宮(正式皇太子)である他戸親王(おさべしんおう)の首を、桓武にすげかえることにある。
そこで百川は、皇后が年寄りの光仁をうとみ、蠱事(まじごと)したとの噂を流す。そして、皇后に頼まれて呪詛をしたという巫女を仕立て、動かぬ証拠として、眼と胸に釘を打ち込んだ人形を、宮中の井戸の中から暴露してみせたのである。
その結果、井上皇后は大逆罪で廃后、他戸親王も連座したとして、母子ともども大和の宇賀野へ流されたあげく、毒殺されてしまい、ここにめでたく桓武立太子のはこびとなった。
この謀略に桓武がどの程度関与したか、そんなことはいまや問題ではない。どだい。賭けや情事で皇位をひっくり返す政治自体、蠱事(まじごと)でなくて何なのだ。そこに乗っかった国つ罪はいくら祓いたくても祓いようがない。
このジレンマから逃れたい桓武は、自らの不浄を奈良の都に転嫁した。
ちなみに、井上皇后はかの聖武天皇の娘だ。
おもえば、聖武ー長屋王以来じつに八十年、呪詛と怨念にまみれた平城京である。
ここは土地が悪い!
延暦三年(784)十一月、まだ工事中の長岡京に移った桓武はようやく気持ちが落ち着いた。
なによりも、寺が無いのがせいせいする。
これが悪夢のはじまりだった。
遷都の翌年、桓武の片腕ともいうべき藤原種継(ふじわらたねつぐ)が、建設現場視察中に何者かに射殺された。暗殺容疑が、かねて種継と反目していた早良親王(さわらしんのう)にかかった。早良は桓武の実の弟、皇太子でrある。懸命に無実を訴えながら、淡路へ流された早良は、途中断食を持って抗議、壮絶な餓死自殺をとげる。
はたせるかな、数年をへずして皇后・藤原旅子が夭死。ついで実母・新笠皇太后。
さらに、早良(さわら)を継いで皇太子になった、実子の安殿親王(あぐしんのう)も病に仆(たお)れた。あわてて使者が淡路へ走り、早良(さわら)の墓前に謝罪する。
ここまではお馴染みの怨念劇だが、この祟りはどうも様子が違った。
謝罪直後、ふいに桂川が氾濫、造営中の皇居は壊滅、水浸しの新都に大量の水死体が浮くという大惨事がおこったのである。
しかも、折からの疫病が京都一帯に広がり、盗賊が跋扈(ばっこ)する。
ここは土地が悪い。十年たたずにまた土地探しだ。
冷静に見れば、新都沈没は治水上の設計ミスだ。疫病や治安の乱れも行政のカバーすべき問題で、早良親王(さわらしんのう)とは何の因果関係も無い。それが災害の凄まじさに動転して何の対策も浮かばない。浮かぶのはただ怨霊の顔、顔、顔だ。早良だけではない。井上皇后、他戸親王、塩焼王から長屋王まで、怨霊という怨霊が桓武の脳天でワルツを踊っていた。
『みんなグルなのだ』
桓武にはそうとしか見えなかった。でなければこれほどの災厄を起こせるものか。そうなのだ。亜やつらはそれを知っていて、その代償にこの都をよこせと言っているに違いない。いくら祓っても通じないのはそのせいだ。
かくして桓武は長岡京を明け渡すのである。
またしても都が変わる。これは大変なことだ。そのための莫大な出費は勿論だが、帝都は建売住宅とはわけが違う。天皇は無敵の荒人神であり、その座所は盤石でなければならない。
はたせるかな、平安遷都が天皇制の根幹を揺るがせてしまうのである。
桓武の子・平城天皇【へいぜいてんのう】(先の安殿天皇)になって、怨霊への恐怖はいよいよ拡大する。
大同二年(807)空海帰朝の翌年、平城とは異母兄弟の伊予親王(いよしんのう)が、母親の藤原吉子(ふじわらきちし)と心中した。
謀反の罪に問われたことへの抗議死で、早良親王とそっくりの事件である。
その前年に逝去(せいきょ)した桓武は、早良(さわら)の怨霊に苦しむあまり、『崇道天皇・すどうてんのう』と追号し、それでもなお、おののきながら死んだのだ。母子心中はその再来ではないか。
震え上がった平城は、たった三年で皇位を放り出し、奈良の平城京へ逃げ込んだ。
ところが、田都の風に欲が出て、愛人の藤原薬子(ふじわらくすこ)とその兄・仲成にそそのかされるまま復位を望み、弟の嵯峨天皇をおろして、また平城京復都をくわだてたのである。
しかし、計画が未然に漏れて、薬子は服毒自殺、仲成は射殺され、本人は出家して東国へ落ちた。
『薬子の変』である。
それにしても、この天皇の四年間はなんだったのか。ただ、怨霊に振り回されただけである。
そればかりか、異母兄弟(服毒死)、その母(服毒死)、愛人(服毒死)、その兄(射殺)と、また新たな怨霊の誕生に協力さえした。平安人が見れば、平城は完璧なまでに祟られているのである。
遷都につづくこの衝撃ははかり知れない。平城はその意味で、桓武の恐怖を増幅したのだ。
たとえば、平城に遷都をそそのかした仲成は、桓武に遷都をそそのかした種継の息子だ。
その父子がそろって射殺された。これも怨霊のなせるわざではないだろうか。といった具合に因果は因果を呼び恐怖はどこまでも膨張していくのである。この現象が俗にいう『御霊』・ごりょう』である。
『御霊・ごりょう』=『ミタマ』は、先祖の霊魂を敬愛する美しい言葉である。これをあえて『ゴリョウ』と呼び変えたところに、平安人の異常な時代心理がうかがえる。
万物に宿る見えざる力『タマ』(チ、ヒ、ミ、モノなどとも呼ばれた)は、古く『ミタマ』『イキミタマ』『アラミタマ』の三相に分別されていた。
ミタマは生命を育む、やさしい和魂(ニギミタマ)である。イキミタマは、生者に宿る霊魂。ただし、『生霊・いきりょう』という場合は、異常生者の怨霊で、抑圧された怨みつらみが臨界を超えると、肉体を離脱し祟りかける。長野県飯綱山に発したという『飯綱法・いづなのほう』は、キツネや犬、猿などの生霊を使役し、めざす相手に憑依させる呪法だ。
アラミタマとは、死んだばかりの新霊で、行方が定まらず荒々しい。祓われればミタマになるが、自殺や変質者などのこの世にしこりを残す霊は、怨霊化しやすいとされた。
ゴリョウも怨霊に違いないのだが、祟る死者と祟られる生者の関係が、一対一の因果を突き抜けて、『複合汚染』のように、あるいは『構造不況』のように社会全体に祟りかけて来るのが御霊なのだ。
疫病も飢餓も、天皇の無為無策や政変も、すべては御霊の祟りとされたのである。
相手は死者だからどうしようもない。とにかく祀り上げ、鎮魂を願うしかないという訳で、京都の上・下『御霊神社・ごりょうじんじゃ』ができた。
祟道天皇をはじめ、これまでみてきた怨霊たちに加えて、吉備大臣、藤原広嗣(ふじわらひろつぐ)、菅原道真、橘逸勢(たちばなのはるなり)、文室宮田麻呂(ふんやのみやたまろ)といった超ド級の御霊が、こぞって平安京を睨みつけたのである。

吉備真備は幾多の政変で失脚したことが何度もあった。それを生き延びたのは真備が偉大な陰陽師であったからで、祀らなければ絶対に祟られる。あの道鏡だって本来なら極刑だろうに、異能を恐れて手を下せなかったのかもしれない。

御霊になるのは、井上皇后や菅原道真のように無実に泣いた弱者であり、これがあの世に移ると、一転して強者に変わる。この時代にあって死者が圧倒的に強い。
となると、処刑はもちろん一般行政から日常生活の端々にいたるまで、いちいち死者の顔色をうかがわなければならない。この世は完全に死者の楽園になってしまうのである。
事の重大さにようやく気付いた為政者は、一連の災厄と御霊の祟りは何の因果も無い、みんな落ち着けと呼びかけたのである。しかし、遅かった。誰もがわが身を守るのに躍起で聞く耳を持たない。なにせ範を示したのは天皇なのだ。
こうして史上に例をみない、死者対生者の攻防戦が始まったのである。
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