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陰陽道の占術について

陰陽道の占術について

天地自然の陰陽を測る秘法・式占

陰陽道とは、この世のすべての現象を「木・火・土・金・水」5つの要素(五行といいます)に分けて、五行のバランスをとることで災いを回避し、幸福を呼び込むことを目的とした技術である。
陰陽五行の原理に基づく『陰陽道』は、日本の歴史に深い関わりを持ち、ときにはそれを動かしてきた。その中核をなすのが呪術と占術なのである。呪術は古くは邪馬台国の時代に、すでに鬼道という名で道教呪術が入り込んできたのが始まりであった。
占術とは、国家を揺るがす変事から個人の命運まで予知する秘法であった。多様に展開を見せる。

陰陽師では、安倍晴明が有名である。「式神」という鬼神をあやつる呪術師のような存在を想像されている方も多いであろう。
しかし、その起源をたどってみると、天文学や暦など、世の中の流れを理解する学問を体系的に学ぶ学者集団であり、古代政治における官職のひとつでもあったのである。
平安時代までは、陰陽道は国家機密として扱われていました。政治の中枢機関の地位にあり、国の運命を左右するほどの力を持っていた。
つまり、日本という国に住まう、すべての人々を幸せに導くためのもの。それが陰陽道だったのである。

 

天武天皇は、陰陽道の天文・遁甲の術に秀で、占いの秘器(ひき)である式盤(ちょくばん)を使って大切なことを判断した。壬申の乱においては、黒雲が十余丈にわたって天にたなびくのを見て、式占(ちょくせん)でこれを占い「これは天下が二つに分かれる兆候である。だが、結局自分が勝利を得て、天下を治める」との占示を得たといわれる。
壬申の乱の後、天武天皇は陰陽寮を設け、占星台を作り、陰陽道の秘儀秘密の漏洩を許さず、天文、親書、兵書、太乙(たいおつ)、や雷公などの秘事の私有を禁じた。

 

陰陽寮は、天文、歴数、風雲、気色、占筮相地(せんぜいそうち)などを司り、天の異変やその他の予兆を天皇に蜜奏した。
なぜなら、天文の異変はまさに大きな事件を予兆するものであったからだ。

螢惑星・けいこくせい(火星)が大微(たいひ)に入ったとしには、平治の乱や京都の大火が起こり、螢惑星・けいこくせい(火星)が歳星(さいせい)を犯した年には、平清盛による政変があり、太白星・たいはくせい(金星)が昴星・ぼうせいを犯した年には、源義仲が木曽に兵を挙げ、平家に衝撃を与え、悪星・蚩尤旗(しゆうき)が出現した元暦二年(1184)、平家は壇ノ浦に滅亡した。
天変のあとに必ず大きな事件が起きると陰陽道では考え、事実そうしたこともあったのである。

古来占術には、亀卜、易占、夢占、風角(ふうかく)、七政、逢占(ほうせん)、狐虚(こきょ)など無数にあるが、陰陽道の占いで有名なのは、太乙、雷公、遁甲、六壬(りくじん)などの式占で、複雑な陰陽の流れを式盤によって占うものだという。

 

太乙、雷公などの式占はすでに失われてしまったが、現在でもよく知られ実践されているものに、遁甲占術がある。
黄帝が天神より符を授かり、風后に命じてその符を解明させてできたのが、遁甲占術だ。奇門遁甲とも呼ばれる。奇門とは、十干のうちの乙丙丁(きのとりのえりのと)を三奇と名付け、、天の八門、地の八方である休生傷杜景死驚開(きゅうしょうしょうとけいしきょうかい)と合わせて呼ぶものである。遁とは隠、隠幽の道であり、甲は至尊の神として隠れる存在の意である。本来、軍人兵法として編み出されたもので、陰陽の変化に応じ、不利な時には動かずに身を隠し、吉を自らのものとし、凶を遁れるものであったという。式占の用いる式盤には、十千、十二支、十二月将などが記された円盤と、八卦、十千、十二支、二十八宿などが記された方盤があり、使用に際しては、方盤の上に、円盤を重ね、それを回転させて、占いを行ったと推測されている。
その他、陰陽道においては、『易経』に基づき、めどきを数え、卦を求めて卜占(ぼくせん)する法などにも用いられていた。昔は式占がもっぱら用いられていたが、秘儀とされていたために次第に失われ、後世になると、もっぱら易占が用いられるようになって来たらしい。

 

 

秘儀としての六壬式占(りくじんちょくせん)

陰陽寮という、宮廷直属の官僚機構から発展していった陰陽道は、11世紀にピークを迎える。その時期、もっとも頻繁に用いられた占法は、六壬式占(りくじんちょくせん)であった。

六壬式盤を使った推断は、まさにあらゆる場面で使われていた。さまざまな、天変地異、病事などの原因にも断を下し、皇位・神官・居所の占定にも用いられた。そして、中でも最も重視されたのが、不吉な前兆として恐れられた怪異(物の怪)が起こった際であった。

正倉院の宝物に、陰陽寮の六壬式占文が残されている。そこに見えるのは、『東大寺の大仏が汗を流した』怪異で、陰陽寮では、東大寺の長官と丑羊寅申歳(うしひつじとらさるとし)生まれの僧の責任を問う見解を下し、天皇を含む多数の物忌みの実施を促している。
この時期、伊勢神宮や東大寺といった国家を代表する社寺の怪異に対し、従来、卜占(ぼくせん)を司っていた神祇官卜部(じんぎかんうらべ)などに代わり、陰陽師が占いを実施している。ここに六壬式占の影響力の強さがうかがえる。
ちなみに、安部晴明が駆使し、数々の不思議を現わした式神は、この六壬式占で使われる天・地の二つの式盤のうち、天盤上に配された十二月将からくるものである。彼の著書『占事略決・せんじりゃくけつ』には、36章にわたり六壬式占の解説が掲載されている。
晴明の占いの的確さとその通力の偉大さは周知のことであるが、その子孫である泰親(やすちか)も、その占験は広く知られ、御所の火災、清盛のクーデター、鳥羽法皇幽閉、以仁王(もちひとおう)の挙兵、清盛の死などを予言し、『天文は淵源(えんげん)を窮め(きわめ)、瑞兆掌(ずいちょうてのひら)を指すが如し』とその名占を讃えられた。

 

 

方角や日時の吉凶

さて、昔の本を読むと『方違え』などという言葉が出てくるが、これも陰陽道の暦(こよみ)の吉凶占いによるものだ。たとえば、貞観(じょうがん)七年(865)、清和天皇が東宮から内裏に移ろうとしたときに、陰陽寮は、その方角は今年絶命にあたるので、避けるようにと進言した。よって方違えのために、いったん太政官曹司(だいじょうかんぞうし)に移られ、そのあと内裏に移られた由(よし)が伝えられている。

こうした暦の吉凶を信じたのは公卿(くぎょう)ばかりではない。武士階級においても同様である。
保元(ほうげん)の乱に際して、後白河天皇方が、機先を制して、崇徳上皇(すとくじょうこう)方を責めるにあたり、源義朝(みなもとのよしとも)は、二条道りを東へ、加茂河原に急いだのに対して、清盛はあくる11日は東塞がりになるとなるといい、三条へ南下迂回し、さらに加茂川を渡って東の堤を北上し、自らの軍の損失を少なくしたという記事が『保元物語・ほうげんものがたり」にある。

新田義貞作と擬せられている『義貞記』には、毎朝属星(しょくじょう)の名を唱え、歴でその日の吉凶を知る云々(うんぬん)と記され、敵を討つ日時とその方角についても事細かに示されている。
他の兵書にも、大将の生まれ年によって攻撃の忌日を定めるなどと記されている。軍事兵法にも、陰陽道の占いが濃厚な影響を与えていたのである。

また、医書としてよく知られる『医心方』にも、陰陽道に基づき、服薬、鍼灸に関する日時の吉凶が細やかに記されている。
それらにも増して、陰陽道の影響を今日まで伝えているものは、暦と占術の世界なのである。

 

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