ひな祭り
元は陰陽道の儀式だったのです!
ひな祭りが近づくとおひな様を飾られる家も多いのではないでしょうか!
やっと春がやって来たという暖かさや安らぎが感じられます。
将来に希望が持てるような気がして、私は好きです。
雛祭り(ひなまつり)は、日本において、女の子の健やかな成長を祈る節句の年中行事のひとつですよね。
ひな人形(「男雛」と「女雛」を中心とする人形)に桜や橘、桃の花など木々の飾り、雛あられや菱餅などを供え、白酒やちらし寿司などの飲食を楽しむ節句祭りであります。
ひな人形は、形代(かたしろ)と呼ばれる人形の一種で、神や霊が降臨するものとされております。
娘の身代わりとして、娘に襲い掛かろうとする病などの災厄、穢れを、ひな人形にうつして避けるという行事がひな祭りの元になっているのです。
紙や土などで作られた原始的で簡単な人形で、1年の災いを受け止めた後に川や海に流されました。これを「ひな流し」といいます。
ひな祭り歴史 はじまりは平安時代の陰陽道
平安時代の京都で既に平安貴族の子女の雅びな「遊びごと」として行われていたとする記録があります。
その当時においても、やはり小さな御所風の御殿「屋形」をしつらえ飾ったものと考えられています。
推古天皇の時代である西暦604年頃に、中国から陰陽五行の思想が日本に伝わると、聖徳太子によって高く評価され、国政に取り入れられるようになりました。
この陰陽五行の思想や風水などを起源とし、日本で発展したのが陰陽道です。
初めは儀式ではなく遊びであり、雛祭りが「ひなあそび」とも呼ばれるのはそのためであります。一方、平安時代には川へ紙で作った人形を流す「流し雛」があり、「上巳の節句(穢れ払い)」として雛人形は「災厄よけ」の「守り雛」として祀られる様になりました。
当時の乳幼児死亡率は現代とは比較にならないほど高く、赤ん坊のうちに亡くなることは珍しくはなかった。親としては必死の思いでこの成長を見守り、枕元には形代(かたしろ)を置き、厄除けとした。そして、1年の災いを、春のひな流しで祓う。これが、ひな祭りの起源であります。
平安時代になると、宮廷では毎月のように陰陽師によって祓(はらえ)の儀式が行われるようになります。
祓(はらえ)の儀式とは神に祈りを捧げ、穢れを清めて災厄を取り除くための儀式です。
祓(はらえ)の儀式のひとつに、神道の祓の術である中臣祓(なかとみのはらえ)を応用した、
七瀬の祓があります。
七瀬の祓は、天皇の穢れを金属製(後に木製)の形代(かたしろ)に移し、七瀬(=7つの川原)に祓うというもので、やがてこの儀式が宮中に広まるようになったのです。
上巳の日には上巳の祓(はらえ)が行われます。
古代中国ではこの日、水辺で飲酒したり不浄を祓い招魂の行事を行う曲水の宴が開かれていました。
上巳の祓はこの中国の行事の影響を受けたとされ、平安時代の貴族たちはこの日、陰陽師に祓いをさせ、人形で身体を撫でてそれを川に流したといいます。
これが現代にも残る「流しびな」の原型と云われています。
時期
一部の地域では、引き続きに旧暦3月3日に祝うか、新暦4月3日に祝うことが多いようです。
(東北・北陸など積雪・寒冷地に多い)。
旧暦の3月3日は、桃の花が咲く時期であるため「桃の節句」と呼ばれることが多いです。
現代の雛祭りは新暦3月3日に室内で行うことが一般的であるが、かつて農村部などでは暖かく春らしくなった旧暦3月3日に子供が野遊びに出掛けて「草花びな」を作ったり、弁当や野外料理を食べたりする風習が一部にあり、現代でも伝承している地域があるのです。
また、江戸時代には、9月9日の重陽の節句に雛人形をもう一度飾る「後(のち)の節供」という飾る習慣がありました。
ひな祭りの歴史 江戸時代は豪華絢爛(ごうかけんらん)に
形代として使われていたひなを、川に流さずに飾るようになったのは、長く続いた戦乱の世が落ち着いた江戸時代以降のことでした。
江戸時代初期の頃は、男女一対の内裏雛を屏風の前に飾っただけの簡素なひな飾りが中心でした。
やがて江戸時代中期頃になると、ひな祭りの習慣は上方から江戸へ、そして地方へと広まり、武家など身分の高い者ばかりでなく庶民の間にも浸透していくようになります。
江戸時代になり女子の「人形遊び」と節物の「節句の儀式」が結びつき、全国に広まり、雛人形が飾られるようになりました。3月の節句の祓に雛祭りを行うようになったのは、安土桃山時代の天正年間以降のことだと推測されております。
江戸時代に入り、製作技術の発展によってさまざまな人形が作られるようになりました。すると女の子の間では人形遊びが大流行するようにななりました。この影響もあり、雛人形は豪華で立派になっていきました。
お金もかかっているので河に流すわけにもいがず、この頃から雛人形の鑑賞を楽しむスタイルに変化した。しかしかつての名残か、「ひな人形はひな祭りが終わったらすぐに片付けないとならない」というしきたりは今でも存在していますよね。
娘の災厄を受け止めた雛人形がいつまでも家の中にいると、婚期が遅れるなどの不幸に見舞われるという。厄を流していない、という解釈になるのでしょう。
それに伴いひな人形やひな道具の種類も増え、18世紀頃になると、しだいにひな段の数が増えるなど、贅沢なひな飾りも作られるようになりました。三人官女や五人囃子といったひな人形が登場し始めたのもこの頃です。
さらに大道具や小道具も増え、京では京都御所の紫宸殿を模した雛御殿や台所用具が作られて御殿飾りとして発展した。いっぽう江戸では御殿飾りは広まらず、代わりに雛壇と嫁入り道具を用いた大規模な段飾りが発展したのです。
戦後になると西日本の御殿飾りは大きさと複雑さにより組立と収納が大変であったことにくわえ、百貨店等の流通業者により取扱商品の全国的統一化が進んだことなどにより昭和30年代に急速に廃れ、壇飾りに押されて姿を消した。
ところが18世紀後半になると、幕府は贅沢を禁止するお触れを出すようになり、ひな人形についても大きなものは作ってはいけないなどと定められるようになります。
そこで考案されたのが、小さくて精巧な「芥子(けし)びな」です。芥子びなはわずか数センチほどの大きさで、幕府のおふれにも反さないことから、庶民の間で流行したといわれています。
ところでおひな様の顔つきが時代や地域によって異なるということはご存知でしょうか。
江戸時代に作られた代表的なものには、大型で切れ長の目が特徴的な「享保びな」や、眼にガラス玉などをはめ込んだ「古今びな」などがあります。
これらは顔つきだけでなく、着物の着方や飾られ方なども異なっており、年代や地域による差を感じることができます。
現代でも、おひな様の顔つきや着物、飾り方は時代や地域などにより違いがみられます。家にひな人形をお持ちの方はぜひ飾って眺めてみてください。
特に顔つきなどは、お祖母様、お母様の時代のものとは違っているのではないかと思います。
ひな祭りが祝日でない理由
江戸時代、雛祭りは「五節句」のひとつとして「祝日として存在した」とされていました。
しかし、1873年の新暦採用が「五節句(=雛祭り等を含む)」の祝日廃止となって、さらに「国民の祝日」より「皇室の祝日」色が濃くなったのです。
このため、戦後になって新たに祝日を作ろうとする動きが見られるようになりました。
祝日制定にあたり3月3日の案や、新年度の4月1日の案も出ていたが、最終的には5月5日の端午の節句を祝日(こどもの日)とする案が採用されたのです。
北海道・東北をはじめ寒冷で気候の悪い地域の多い時期を避け、全国的に温暖な時期の5月にしたというのが大きな理由の一つとされます。
(陰陽道・ウィキペディア(Wikipedia)参照)