(画像は映画「陰陽師」より)
陰陽師(おんみょうじ、おんようじ)は、古代日本の律令制下において中務省の陰陽寮に属した官職の1つで、陰陽五行思想に基づいた陰陽道によって占筮(せんぜい)及び地相などを職掌とする方技(技術系の官人。技官)として配置された者を指します。 中・近世においては民間で私的祈祷や占術を行う者を称し[1]、中には神職の一種のように見られる者も存在しました。
なお、本来は「おんようじ」と訓んだが現代は専ら「おんみょうじ」と訓まれ、これは「おんようじ」が連声化して「おんみょうじ」となった(「陰」は中国語中古音で「*ʔi̯əm」、中世日本語音で「*wom」なので、連声化するとま行の音になる)ものとされ、また「おんみょうじ」と先頭を強調する発音が定着しているが、かつては「おんみやうぢ」と2音目に揚音があったと言われております[要出典]。
五穀豊穣の 祈祷、 お清め、災難除け、祈念、邪気祓いなどを行っていたようですね。
中・近世においては民間で私的祈祷や占術を行う者を称する言葉ですが、中には神職の一種のように見られる者も存在していました。
陰陽師といえば、代表的な人物は安倍晴明だろうといえます。謎に包まれた伝統的な人物の陰陽師であります。
『尊卑分脈』によれば、右大臣安倍御主人(あべのみうし)から9代目の大膳大夫益材(だいぜんのだいますき)の子という。晴明も大膳大夫を務め、左京権大夫(さきょうのごんのだいふ)・穀倉院別当(こくそういんべっとう)などの官を歴任しており、子供にやはり陰陽師の吉平・吉昌がいます。
芸能の世界では、晴明の父が狐を助けたことから、その狐は父の妻となって、生まれた子が晴明(芸能の『信田妻』物などでは名前を『晴明』とする。)であるとされ、晴明は狐の子という伝承が有名になりました。有名なものとしては、古浄瑠璃『しのたづまつりぎつね 付 あべノ晴明出生』(延宝2年=1674刊)に挙げられております。
晴明の父保名が悪右衛門の子から狐を救った。狐は女に化して、保名の妻となり、安倍の童子をもうけた、だが、狐の姿を童子に見られたことから信田の森へ泣く泣く帰っていく。童子は、父とともに母狐を探し求めて森をさまよううちに、母狐が現れて童子に霊力を授けたのです。
やがて童子は大唐の白道上人から、『金烏玉兎集』を授けられ、天皇の病気を治癒させ、五位に叙されて、晴明と名乗る。悪右衛門の兄、蘆屋道満は、晴明と法力争いをして破れ、父の保名を一条戻橋で殺害したが、晴明は必死の祈祷で蘇生させる・・・・。
この浄瑠璃は、慶長年間(1596~1615)に成立したという『ホキショウ』などをもととして作られていたものらしいが、他に、近世初期の仮名草子『安倍晴明物語』などにも同様な話が見られます。
いずれにしても、晴明が狐の子であったという話は、そうとう古い時期に伝承されていたのでありましょう。
数多くの伝承が残る出生の秘密
『大日本史料』所引の『讃岐国大日記』(さぬきのくにだいにっき)や『讃陽宸筆録』(さんようしんぴつろく)によると、晴明は讃岐の国の人だという、また、大阪市阿倍野区阿倍野元町にある安倍晴明神社では、祭神として晴明を祀り、社の前には『安倍晴明生誕伝承地』の標柱が建っております。
誕生の地については明確ではないが、『臥雲日件録』に『化生』の者と記されているように、彼が生前に示した数々の妙術ゆえか、誕生については次第に、『化生』の者としての伝説が成立していきました。『土御門家記録』には、寛弘2年(1005)9月26日に他界したとあり、『尊卑分脈』や『安倍氏系図』に享年が『八十五』とあるから、それを信ずれば延喜二十一年(921)の誕生ということになります。
鬼を見て異能の力に目覚める
若いときの晴明の姿は『今昔物語集』に伝えられております。
晴明は幼少のとき賀茂忠行に陰陽道を学んでいたが、ある夜、忠行の供をして下京あたりに行った事があった。晴明は徒歩で車の後を歩き、忠行きは車のなかで眠り込んでしまっていた。ふと前方を見ると鬼たちが歩いてくる。驚いた晴明は忠行きを起こして、そのことを知らせた。忠行きは術で自分や供の者たちを隠し、無事に通り過ぎたのであった。それから忠行きは晴明を手放しがたく思い、陰陽の道をすべて教えたので、晴明はこの道で大変尊い存在になったという。
忠行きが晴明を手放し難く思ったのは、幼い晴明の目に鬼が見えたからだ。晴明には異能の力がある。忠行きはそれを見てとって、自分の術のすべてを教えたのである。忠行きが晴明の才能にいかに惚れもんだか。『今昔物語集』の言葉を借りれば『此の道を教フル事瓶の水ヲウツスガ如し』、つまり瓶の水を他の容器に移すがように教えたというのだ。
晴明は賀茂忠行とその子の保憲に天門道を学んだ。保憲は晴明に天文道を譲り、子供の光栄(みつよし)に暦道を譲った。以後、それまで賀茂氏が独占していた陰陽道は、安倍家(土御門家と称する)が天門道、賀茂家が暦道と、二流に分かれて受け継がれることになった。
天文博士・陰陽師としての晴明の仕事を伝えた記録としては、長保二年、(1000)二月一六日に晴明が法興院に行幸の日時を『来月十四日』と勘申し、その四年後の、長保六年二月一九日、木幡三昧堂(きはたさんまいどう)を建てるべき場所を晴明と賀茂光栄らが定めた(『御堂関白記』)というものなどがあり、『大日本史料』所引『禅林応生詞』に、天元元年(978)花山法皇の命により、那智山の天狗を封じたこと、寛和(かんな)二年、(986)に泰山府君の祭を行ったこと、永祚(えいそ)元年、(989)臨時仁王会の日時を勘申したことなどが記されている。
前世、未来、闇の世界を見抜く
ほかに、晴明に関するものとしては、『日本紀略』天元元年七月二四日ころに『雷震』があり、陰陽博士出雲清明宅』が破損した由が記録されている。この『清明』とは『晴明』のことであろう。天元元年といえば、晴明はすでに五八歳である。陰陽師として天下に名前を轟かせていた筈である。その晴明宅が、『雷震』に見舞われて破損したというのは、当時の一つの事件であったろう。
自分の災害を見抜くことはできなかったけれど、未来や前世など、闇の世界を見抜く晴明の眼は尋常のものではなかった。次の話は、『古事談』に見えるものである。
晴明は那智に千日間籠もった行人で、毎日二時間滝に打たれた。前世では尊い大峰の行人であったという。花山院が天皇の位にいたとき、頭風(頭痛か)病んだ。降雨の時は特にどうして良いかとわからぬほどに苦しんだ。さまざまな治療もまったく効果がなかった。
晴明は『花山天皇は前世は尊い行者で、大峰の某宿で入滅された。前世の行徳によって天子の身と生まれたけれども、前世の髑髏が岩の間に落ち挟まっていて、雨のときには岩が膨らんで間がつまるものだから、今生ではこのように痛むのです。あの大峰にある御首を取り出して、広い場所に置いたならば必ず治癒する筈です。』と申し、『髑髏はどこそこの谷底にあります。』と語った。
そこで、人を遣わして見させたところ、晴明の言うところに相違がなかった。花山天皇はその首を取り出してのち、頭の痛むことは無かったということでした。
式神を使い、数々の奇跡を起こす
陰陽師は式神(織神ともいう)式神とは、主人である陰陽師の命令のままに動く鬼神のことなのです。むろん、晴明も式神を使役した。
晴明が寛朝僧正の坊で談合をしていたとき、若い公達や僧が『そなたは式神を使うと言うことだが、たちまちに人を殺すことができるか?と問うた。晴明は『そう簡単には殺すことができないが、少し力を入れたならば殺すことができる。だが、生き返らせる事ができないから、罪作りなことになります。』と答える。
おりしも庭先に蛙がいた。それを見て公達が『あれをひとつ殺して見せてくだされ』と言う。晴明は『罪作りな・・・・・』と言いながらも、『自分を試すと言うのならば』と言って草の葉を摘み取り、なにか呪文を唱えるようにして蛙の方に投げてやると、草が蛙の上にかかると同時に、蛙はぺしゃんこにつぶれて死んでしまった。
また、晴明は家の中に誰もいない時は、式神を使っていたものか、人の姿が見えないのに、蔀が上がったり下がったりした。また、門を閉ざす人がいないのに、閉ざされたりしたという。 これは『今昔物語』や『宇治拾遺物語』に見える話であるが、晴明の得体の知れなさを伝えるものだ。寛和二年(986)六月二三日、花山天皇が出家した。これは藤原兼家・道兼父子らの策謀によるもので、道兼は言葉巧みに花山天皇を誘い出し、東山法花寺に向かった。天皇の象徴である剣璽(けんじ)はすでに東宮(一条天皇)に渡してあった。
途中、花山天皇は土御門北、西洞院東にある晴明の屋敷前を通過した。すると晴明の声がして、『天皇が譲位したと見える。天変があったが、すでに譲位は成立してしまったらしい。ただちに参内する』と言っている。
晴明が、『とりあえず、式神が一人、内裏へ参上せよ』と命じたところ、眼には見えぬものが戸を押し開け、天皇の後ろ姿を見申し上げたものか、『ただ今、帝は、ここを通り過ぎて行かれるようです』と答えていたと言うことである。 『大鏡』にある話である。
晴明が天に異変が起こったのを見て、天皇の譲位をいち早く察知したという内容で『眼には見えぬもの』とは、式神のことである。こうした話を見ると、晴明は式神を手足のごとく使役していたものらしいのです。
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気功のことを少し話しますと、気功は中国で4000年も前から行われている健康法です。
気功の「気」は元気、病気、気持ち、気分の気です。英語で「Qi(またはChi)」と書き、「チー」と発音(中国語の気の発音と同じ)します。気の本態は解明されていませんが、生命エネルギー、宇宙エネルギーとみなされ、1から20ヘルツの低周波の波動の性格を持っています。
気功師は体内の気を巡らせ、宇宙、大地、樹木など外部の気も取り入れます。約2000年前に書かれた中国最古の医学書「黄帝内経」には、気が病気と深いかかわりがあり、気功は病気の予防、治療、寿命を伸ばす効果があるとされています。
気功は保健医療気功としての「軟気功」と、武術気功としての「硬気功」に大別されます。軟気功は自分で気を養う「内気功」と自分で養った気を他人に与える「外気功」に分けられます。
気功法の種類は非常に多く、現在中国では2,000を超える流派があるといわれています。これらの中には体操のように身体を動かす「動功」と、座禅やヨガのようにあまり動かない「静功」があります。
気功とは、日本で古来より伝わる“手当て”に由来した療法です。
誰もが無意識にしている“痛いところを手でさする”という行為、『痛いの痛いの飛んでけ~』と痛い患部をさすって他の大気中に投げる行為などは、実は手から出る“治療の気”で痛みをやわらげていたり、痛みを気で取り除き他の場所に移動させ、痛みを緩和させる意味があったのです。
専門的な訓練により高めた気功師による療法が気功療法です
宇宙から流れているエネルギーを受け、身体を介して出る気を、専門的な訓練により高めた気功師による療法が気功療法とも言えます。難病や慢性病にも結果を出しております。
自ら長年の研究や研修を経て編み出した施術なのです!
整体・気功術、カイロプラクティック・気の指圧:マッサージ・ 柔術・ 太極拳・陰陽気功呼吸法・ストレッチ・リンパマッサージなどを融合したりして手技療法を勉強しました。
言葉では表現できない感覚、感性、全身の血流を良くするため、さまざまな難しい症状や痛みやむくみを快消していきます。
身体の血管細胞や血液、リンパ液の流れもスムーズな状態にでき、その人の筋肉の硬直、拘縮などを無くしてゆくことができ、その人の身体の状態に合ったよりきめ細やかな施術を行います。
固まったり漂っている血液の流れを改善し、固くなっている筋肉をゆるめる、痛みやしびれを軽減する効果があるのですよ。
40年の間にたくさんの驚きや歓びの事例などが沢山出ました。
血流が滞っているコリを取ってゆき、気の施術で、身体全体の血流を良くして身体の不調と辛い痛い部分を整えることが最大の特徴です。
「気」の治療は、主に「身体」「運気」「邪気」の3つを中心に考え、気功整体や呼吸法による「気」を整えることで身体や考え方をプラスの方向へ働きかけます。精神的にも落ち着いてきます。症状を選ばずに治療を行うことができます。
原因不明な病気でさえも改善されたことがしばしばあります。
気功整体を使い、揉みほぐしなどと併用した場合などは施術が終わったあと、身体が軽くなっております。血流が良くなり、身体の邪気も払われたのでしょう。
病は気からといいますが、邪気を取り除いてストレス解消、プラス思考で運気を上げてゆくことで身体と心を健康に、元気になっていきます。
「気」をプラスの方向へもっていくことで、その方の生命力がグングンと上がるため、自然と身体も健康な状態に、運も上昇気流に乗っていくのです。
心と身体のバランスが整い身体だけでなく、考え方、心も元気にポジティブになりますよ!
なんとなく気持ちが下がっている、身体だけでなく心も元気がない(自律神経が病んでいるかもなど)と思われる方、ぜひ一度お試しください!
自分でやる気功も幾つかあります。手や肩を軽く回してゆくことや手で足首を持って回して見ることや、足だけで足首回し、つま先伸ばし、首を回転させるなどの運動も、気を身体に取り入れる運動になります。
歩くことも身体に大変良いですから自分でできる気功健康法でこれからも健康で明るく生きましょう。
(陰陽師の本 安倍晴明 引用 参照)