怨霊から都を護る 呪術的テクノロジー
怨霊に苦しめられるのを恐れた桓武天皇は、わずか十年で長岡京に終止符を打ち、延暦十三年(794)に都を新たに京に移すことを決める。しかし、今度はあらゆる怨霊や邪鬼が都に入って来ないような、霊的なバリアを張ることを忘れなかった。
陰陽師たちは、都に霊的なバリア(結界)を張るために『四神相応』という術を使った。
四神相応とは、昔から中国の都市つくりの際に採られていた方法であり、北に山があり玄武(げんぶ)が住み、南には大きな池があり朱雀(すざく)が住み、東には清らかな川が流れ青龍(せいりゅう)が住み、西には大きな道があり白虎(びやっこ)が住んでいれば、四方が防御されて外部から侵入されないという一種の風水術である。
運よく京には、北に船岡山(ふなおかやま)、鞍馬山(くらまやま)、貴船山(きふねざん)など玄武が住めそうな山があり、南には朱雀が住める巨椋池(おぐらいけ)があった。東には鴨川が流れていたので青龍が住めるし、西には山陽道や山陰道が走っていたから白虎が住める、といったまさに理想的な場所でもあったのだ。
そして、鬼神の通り道といわれ、もっとも忌避された丑寅(東北)の方角には、比叡山延暦寺が置かれ防御態勢は整った。また、少し後になるが安部晴明の屋敷もこの方角に建てられている。
しばらくの間は、霊的防御は成功したかに見えた。では霊的バリアは完璧だったのかというと、それはどうもそうではなかったようだ。またしても怨霊の仕業による恐ろしい事件が、京の人々を怯えさせたのだ。
ことの起こりは菅原道真公が延喜元年(901)に、大宰府に左遷させられたことに始まる。菅原道真公は、今では全国天神社の総本山である大宰府の北野天満宮に奉られている、言わずと知れた学問の神様である。
受験生なら誰でも一度は天神様にお参りして日ごろの努力不足をその御力で、何とかカバーしてもらうように頼んだこともあるだろうが、この神様は、もともと怖い怨霊として、京の人々を恐怖のどん底に陥れたこともあるのだ。
道真公は54歳で右大臣、従二位になった高級官僚であったが、不幸なことに当時は藤原の一族が政治の中枢をほとんど掌握していた。頭脳明晰で人柄も良く誠実で、人望も厚い道真公は、ありとあらゆる権謀術数を使って権力を掌握してきた藤原氏にとっては、何かと目障りな存在だったのである。そんな彼が陰謀によって官位を剥奪され、突然大宰府に左遷されるはめになったのだ。
その陰謀というのは、道真公の娘が醍醐天皇の弟である斎世親王(ときよしんおう)に嫁いでいたこともあって、にわかに道真公が親王を皇位に就けようと企てている、というデマを流されたのだ。
もちろん道真公はそんなことは微塵んも考えていなかったのだが、彼を目の敵にしていた藤原時平(ふじわらときひろ)をはじめ、藤原一族は一斉に紏弾(とうだん)したのだ。そして、ついに道真公は太宰府に左遷されてしまう。それから五年後、失意のうちに道真公は寂しくこの世を去ったのだ。
さて、この直後から四方を守護されているにも関わらず、京に異変が起こり始めた。なんと宮中に雷が落ちたのだ。
藤原氏ら公家たちは、その物凄い稲光と雷鳴の中に道真公の怨霊を見た。そして、道真公を何かと目の敵にしていた藤原時平は、その直後、三十九歳という若さで亡くなる。これを契機に藤原一族は数々の不幸に見舞われはじめた。
時平の死後、弟の忠平が大臣になった時のこと、今まで晴天であったにも関わらず、愛宕山の方角に黒雲が忽然と現れ、宮廷に近づいて来た。しばらくして、とてつもなく大きな雷鳴が轟く(とどろく)と同時に清涼殿の柱に稲光が光った。柱は燃え出し、炎は辺りにいた公家たちに次々と襲い掛かったのだ。その結果、道真公を陥れた陰謀に関わった藤原氏の中に何人かの死者が出たのである。
恐れおののいた朝廷は、ただちに、菅原道真に従二位を追贈するが、それでもなお道真公の祟りは治まらず、災いは五十年近く続いたという。
そして、ついに朝廷は道真公に『天満自在天神』という神としての称号を与え、その怨霊を祀るあげることで、なんとか祟りを鎮めるまでに至ったという。藤原氏にしてみれば、身から出た錆とはいえ、やはり悪いことはできないものある。
賢明な方は真理を歴史に学び、深く心得よ。
平氏滅亡を予言した童子の歌
平安時代には、その驚異的な呪術力で多くの貴族たちから崇敬されている陰陽師であったが、武士が台頭した鎌倉、戦国時代になってくると、その活動範囲を朝廷内にとどめず各地に行き渡っていくようになった。
武将の中には、『奇問遁甲』など、占術的な戦術を取り入れた者もいた。平家の頭領であった平清盛(たいらのきよもり)などは、陰陽道の呪術を真剣に信じていたようで、彼が武家としてステータスを築くきっかけとなった。保元の乱の際にも陰陽道の知識を利用していた。
崇徳上皇(すとくじょうこう)は、嫡子(ちゃくし)の重仁親王(しげひとしんおう)を皇位につけようと藤原頼長(ふじわらよりなが)とともに画策し、後白河天皇(ごしらかわてんのう)を除こうとした。天皇側の守りについていた平清盛(たいらのきよもり)と源義朝(みなもとのよしとも)は逆に白河殿にいる上皇に夜討をかけることにする。
頼朝は最短距離で自分たちのいる高松殿から、東の方角にあった白河殿に向かったが、なぜか清盛は別行動をとり、回り道をして白河殿の北側から攻め入ったのである。これにはちゃんとした理由があったのだ。
その日は陰陽道でいうと東の方角があまり良くなかったので、それを知っていた清盛はあえて時間がかかるものの、わざわざ遠回りして遠回りして方角を変えてから夜討したのだ。その結果、夜討は成功したものの義朝の軍は多くの犠牲を払い、少し遅れた清盛の軍はさほど被害が出なかったのである。
清盛はその後、武士としては異例の出世をして太政大臣(だじょうだいじん)にまでになった。後に清盛は、娘の徳子を高倉天皇の御宮に送り、その皇子の言仁親王(ことひとしんおう)(後の安徳天皇・あんとくてんのう)の外祖父として、その地位を不動のものにする。
ただし、不吉な予兆はすでに現われていた。まず、徳子の懐妊がわかった時に、空に彗星が現れたが、陰陽師の中には、これは不吉なことの暗示であるという見方をする者もいた。また、徳子のお産がまじかに迫った時のこと、母の平時子は橋占いを行いに、一条戻り橋へ行った。橋占いとは橋に立ち、その時に行き交う人々の発する言葉から自分が一番耳に残った言葉をもとに未来を占うというものだが、その時、その歌の中の『八重の塩路の波の寄す榻(しじ)』というフレーズがみみに残ったのだ。
榻(しじ)とは牛車の轅(ながえ)に使う木の台のことで、歌は荒波が木の台に降りかかるといった意味の様だが、時子にはその真意がまったくわからなかった。
さて、無事に徳子は皇子を生み、盛大な祝賀の宴が催された。清盛は七人の陰陽師を呼んで皇子のために『千度祓い』をさせようとしたが、その中にいた安部時春は宴に集まった大勢の来賓の中を進むうち沓(くつ)を踏まれ、冠は脱げるといった乱れた姿のまま千度祓いを行った。それを見た来賓たちは、その姿があまりにも無様なのですっかり興ざめしてしまったという。
それから八年後、時子に橋占いのときに耳に残ったフレーズの意味が解るときが来た。
源義経(みなもとのよしつね)率いる源氏の軍勢に、壇ノ浦に追い込まれた平家一門は船で沖へ逃げるが、その際、時子は安徳天皇を抱いたまま海中へ身を投じたのである。
童子の歌に出てきた、榻(しじ)とは安徳天皇のことを象徴していたのである。
男女の交わりは絶大なパワーを生み出す
平安時代の末期に、その教えや儀式があまりにも性に対しておおらかなゆえ、淫祠邪教(いんしじゃきょう)のレッテルを張られた宗教がある。それは、真言立川流という密教の一派であるが、この宗教もまた陰陽師の影響を強く受けているのだ。
開祖は仁寛(じんかん)という僧だが、この人はもともと左大臣であった源俊久(みなもとのとしひさ)という人の三男に生まれたという由緒正しい人である。しかし、源俊久が熱心な仏教信者であったため、仁寛は兄と共に幼くして出家させられてしまったのだ。仁寛は出家後、後三条天皇の皇子輔人親王(すけひとしんおう)の護持僧にまでなったが、ある時、皇位継承に絡んだ謀略に巻き込まれ、無実の身ながら伊豆へ配流されてしまう。伊豆に着くと仁寛は、そこに住む庶民が都人と違い、とても人間らしい大らかさを持っていることに気付く。
今までに経験しないような開放的な気分になった時、仁寛は密教の『理趣経』のことを思い出した。
男性を陽、女性を陰として考え、それが交わることで最高の幸せが得られるということを教えている経である。そこで仁寛は、妻帯して庶民に仏教を教え始めた。庶民も仁寛の人柄の良いこともあって次々と信者になっていった。
はなしは少しそれるが、この『理趣経』という経典は空海と最澄の仲たがいの原因になったものでもある。空海が持っていたこの経典を最澄が借用したいと申し出たが、空海はそれを断ったのだ。空海としては意地悪をして貸さなかった訳でもない、この経典は密教の中でも非常に難解で、ややもすると誤解して大変なことになる恐れがあると感じ、この経典を秘典として、一般の人には決して見せなかったからだ。おそらく自分のところで秘典としているものを、他宗の者に見せる訳にもいかなかたのであろう。
さて、ある日、伊豆での布教活動を順調に進めていた仁寛のもとに、ひとりの陰陽師がはるばる武蔵国立川からやって来た。その陰陽師は仁寛が説く『理趣経』をもとにした仏教と陰陽道が酷似していることに感動し、すぐに弟子入りを志願、見蓮と名乗り仁寛とともに新しい宗派である立川流を開いたのだ。
おそらくこの立川流は、人間の性的エネルギーを昇華させることによって宇宙との合一をはかるという。非常に高度な行法を目的にしていたことと思われるが、これはいかがわしいモノではなく修得するにはかなりの修行を積まなければならないようなものなのだ。
ただし、この立川流は、鎌倉時代には庶民の中では大流行したものの、南北朝時代には、危険思想として弾圧を受けあえなく解体してしまったのである。
日本史の英傑たちに影響を与えた陰陽道
陰陽道宗家であった加茂家と阿部家の両家は、室町時代になると次第にその勢力を失っていった。加茂家は勘解由小路家(かでのこうじけ)、阿部家は土御門家(つちみかどけ)と両家とも、地名に因んだ(ちなんだ)姓に変えていった。
しかしながら、陰陽道の影響力は根強いもので、日本史上に名を残している人物のほとんどが何らかの影響を受けているといっても過言ではない。
鎌倉幕府を開いた源頼朝も、陰陽道にかなり関心があったようで、彼に挙兵を勧めた文覚という僧から、陰陽道の基本を習っているほどだ。挙兵の際も卜筮(ぼくぜい)『易占いのこと』で、出撃の時間を判断していたという。
頼朝の弟である源義経も、陰陽道との関係は薄くはない。義経は幼いころに鞍馬山で天狗から武芸を習ったと伝えられている。天狗というのは架空の妖怪だけではなく、実際は役小角(えんのおづぬ)を開祖とする修験道をはじめ、古くから伝わる山岳宗家を修行する山伏たちと考えられている。
もちろん、山岳宗家は陰陽道の影響を多分に受けているので、義経が武芸の他に呪術的な教えも修得していたことは、十分に考えられる。後に頼朝に追われ、奥州に逃げる時も、義経は山伏姿であったと云い伝えられている。
鎌倉幕府が滅び南北朝時代になると、呪術に長けた天皇まで現れた。その天皇とは後醍醐天皇である。後醍醐天皇は、呪術で鎌倉幕府を滅ぼしたとも言われている。若いころから呪術に深く関心を持ち、蛇枳尼天法(だきにてんほう)という呪術を学んでいたと言われている。また、天皇は易にも詳しく、自ら筮竹(ぜいちく)をふるって占うことがあったとも伝えられている。
のちに、足利尊氏に(あしかがたかうじ)に攻められ、吉野の山に逃れて南朝を築くが、なぜか北朝側は南朝に攻め入ることをせず、南朝は六十年も存続したのである。後醍醐天皇は陰陽道に基づき、南朝に結界を張り巡らせ、北朝の兵を防御して居たのかも知れない。
時代は下り戦国の世になると、武力で秀でたものが天下を取るといった時代背景の中では。陰陽道も影をひそめた。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人が結果的には天下を取ったが、この人たちの中で一番信心深く、呪術などに興味を持っていたのは徳川家康である。
徳川家康は、江戸幕府を開くと、すぐに天海という僧侶を相談役として迎える。南光坊天海(なんこうぼうてんかい)という僧侶は、実は家康だけではなくあの戦国武将・武田信玄の天台宗の教義の師匠をした人物でもあるのだ。家康に召し抱えられたときは、すでに七十七歳といった高齢であったにも関わらず、秀忠、家光と徳川三代に仕え、百八歳まで生きたという人物である。その出自は明らかではないが、室町幕府十一代将軍、足利義澄(あしかがよしずみ)の落胤(らくいん)であるとか、会津の豪族蘆名氏(あしなし)の血を引くとも言われていたらしい。
天海はかなりの陰陽道的知識を持っていた人で、天文や遁甲(とんこう)、方位学などをもって幕府に多大な貢献をした。その柔軟な発想と、政治的駆け引きには定評があったが、呪術力の方も相当なものであったと云われている。
家康が疱瘡(ほうそう)を患い医者も匙(さじ)を投げたときに、自ら祈祷して病を平癒したり、風水にも詳しく、江戸城の鬼門にあたる場所に寛叡寺(かんえいじ)を建てるように進言したのも天海であった。
これは京の都が鬼門封じのために、比叡山延暦寺を建てたことと同じ考えに基づいたものである。その成果があってか、江戸幕府は三百年という長い期間続くことができたのである。
明治の頃になると政府は神仏分離令を発令し、神道(神社)と仏教(寺)はそれぞれ独立した形となった。
陰陽道はそれまで神道や密教などと習合してきたが、明治以後は一応神道として展開することになった。
明治、大正時代には、いくつかの宗教団体が現れたが、特に大本教(おおもときょう)をはじめとする神道系新宗教には、その教義の中に陰陽道の影響を受けたと思われる部分が数多く存在しているのだ。
また、前述のごとく、現在の東洋系の占い、四柱推命、九星占い、気学、風水などのエッセンスはすべて陰陽道から影響を受けている。陰陽道は我々の生活の中に、今なお、しっかりと生き続けているのである。