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陰陽道における天文道と占術

陰陽道における天文道と占術

陰陽道では天は澄みきった陽の気が最初に出来て、地はその後に出来たものとしています。
そして、天の精気と地の精気が重合して陰と陽の気が生まれたとされます。
続いて陰陽の気が四方に分散して大宇宙が出現したとしています。この時、時間も生まれ、これを暦と呼んだのであります。
次に陽の気から火の精が生成され、それが物質化として太陽になり、陰の気から水が生成され、月が生まれたとしています。
そして太陽と月から染み出てきた陰の気の精が星になったとしています。

 

気象関係も陰陽の関係から説明されており、風は陰陽の気が偏った場合『偏気』(へんき)、に吹き、陰陽が和合した時、『合気』(ごうき)に雨が降るとされていました。雷は陰陽の気が激しくぶつかった時に発生し、混じり合うと霧になるとされていたのです。太陽系の惑星は今とは違い、木星を歳星(さいせい)、火星を熒惑星(けいわくせい)、土星を鎮星(ちんせい)、金星を太白(たいはく)、水星を辰星(しんせい)と呼んでいたのです。

これらの星はすべて、陰陽五行説と対応されていると考えられました。北斗七星は七陽または七政と呼ばれ、恒星のように位置を変えない星は経星(けいせい)といい、彗星や流星などは客星(きゃくせい)と呼ばれて特別視されていました。

銀河や天の川はガス状であると考えられており、五行でいう金の気が散ってできあがったものと解釈されていたのです。また人が死ぬと、その精気が天に上がり星になるという説もあったようです。
客星つまり流星や彗星は、陰陽道では地上に変化をもたらすものとして、注意深く観察されていました。流星が頻繁に見られるようになると、近く戦乱の兆しがあると判断されていました。なぜなら、流星は金の精が地上に降り注ぐと考えられ、金の精は金属製の武具と関連付けられていたからであります。

陰陽師の仕事はこのような天変や地変を記録するだけではなく、そこから何らかの兆しを読み取ることでもありました。『平家物語』には、晴明から五代目にあたる安倍の泰親(やすちか)が治承三年(1179年)、十一月七日夜に、大地震が起きたとき、宮中に馳せ参じ、大地震は慎みの軽さが災いして起きたと提言、そして近く異変が生じるであろうと報告するが、天皇や公卿(こうきょう)は笑って聞き流しました。しかし、一週間後に平清盛(きよもり)が謀反を起こして公卿たちを震え上がらせたと記録にあります。

『明徳記』には、明徳二年(1391年)に大地震が起きた際に、土御門有正(つちみかどありまさ)は、逆臣、兵乱の兆しあり、七十五日以内にそれは起こると指摘し、その指摘が当たったのか山名氏清(やまなうじきよ)、満幸が挙兵し、明徳の乱が起きているのです。

のちに陰陽道では天文占(てんもんせん)といって、雲の形や色、虹や風向き、太陽の近くで見られる雲気などの自然現象を見ることで、そこから将来地上に起こることを占うということが頻繁に行われるようになったのです。

 

天文博士、安倍晴明が見た星の運行

安倍晴明が天文道で最初に勉強したのは、星の運行についてであります。天体を観察する場所は占星台’せんせいだい)で行われました。
『日本書紀』によると、初めて占星台を作ったのは天武天皇で、天武五年(675年)と記されています。一九九九年に天武天皇が即位した飛鳥浄御原宮が発掘され、そこにある宮廷庭園と思われる場所に益田岩船と呼ばれる巨石があるが、これが日本初の占星台ではないかと考えられています。
さて、天門道の宇宙観は多種多様ではあるが、なかでも蓋天論(がいてんろん)、渾天論(こんてんろん)の二大論が基本になっていたのです。

蓋天論は天(宇宙)とは、開いた傘のごとく大地を覆い、地は鉢を伏せたような形になっていると説くものであります。
天は円形、地は方形とされ、陰陽道の式盤(ちょくばん)の形もこれに影響を受けているのです。この宇宙論によると、天は左(西)に回転しているとされ、太陽や月は右(東)へ動いているとされました。つまり、天が回転することによって天体すべてが西の方に移動しているという説であります。
のちにこの説は修正され、天地は半球状になっており、ともに北極点が中心となっているとされたのです。ノーモンという長さ八尺の棒を水平な地面に立てて、太陽により生じるノーモンの影の長さを測り、宇宙の大きさを算出しようとしたのであります。
次に渾天論であるが、天地とともに球状をしているという説であります。
陰陽道では、天球儀というものがあるが、これは一目で天空の星の位置を把握するために作られたものであります。ようするに、二説とも天動説であったのだが、時代とともに後者のほうがより正確なものとして認められるようになっていったのです。次に天体の座標であるが、これは五惑星のうち歳星(木星)の運行が基本とされたのです。歳星は、十二年に一度全天を一周するので、天空の赤道上を十二等分(十二次)したのであります。
つまり一年に一次分惑星は進むから、その位置がわかれば十二次のうち現在がどの年かがわかるということであります。
ただし、正確には十二年に一度ではなく、十一,八六年に一周するので、誤差が生じてしまいます。よって一四四年ごとに一次分とばす措置がとられるようになりました。この十二次分割がのちに十二支的発想に結びついて行ったのであります。
この十二次よりも重要な意味を持つものが、二十八宿というものであります。これは、月や太陽、五惑星の天体の位置を示すために、赤道上に沿って二十八に不等感隔の区分を配置し、それぞれに基準になる星、(距星)きせいを定めたのです。そのほかの星の座標を調べ距る場合には、その距星からの入宿度(経度上の差)と赤道座標上での北極からの距度(距極度)によって表示されたのであります。
のちに、この二十八宿は七宿で分けられ、陰陽道の四神相応と対応され東宮青龍、北宮玄武、西宮白虎、南宮朱雀(すざく)と命名されました。

 

陰陽道で行われた占術

『日本書紀』によれば、五五三年に大和朝廷は医学、暦学、易学の博士を送れと百済に対し要請したが、現実に日本に入ってきたのはその半世紀後、六〇二年に百済僧・観勒が来朝した時で、歴、天文、地理、遁甲(とんこう)、方術の書を伝えたと記されています。
このとき観勒のもとで選ばれた優秀な学生が研究に入り、暦法は陽胡̪史祖玉陳(やこのふおやたまふる)、方術は山背臣日並立(やましろのおみひにたて)そして天文遁甲は大友村主高聰(おおともすぐりこうそう)という学生が選ばれました。名前から見てもわかるように彼ら学生の殆どは、朝鮮半島からの渡来人でありました。なぜなら漢文を理解する点で、彼らの方が当時の日本人より数段上回っていたからであります。

その後、日本でも独自で天文、方術(占術や呪術的要素が強いもの)の研究機関を作ることになり、当時の唐帝国の組織を真似て作られたのが陰陽寮だったのです。
中国では歴道と天文道、漏刻(ろうこく)は太使局(たいしきょく)という役所の所轄になり、方術や占術などは、太卜署(たいぼくしょ)という別の役所の所轄とし、科学的な分野と占い的な分野を明確に分けていたが、日本の陰陽寮ではそこまで徹底して区別されることはありませんでした。日本の場合は、どちらかというと中国とは逆で、方術的なものが歴や天文より優先的に扱われていたといいます。
このように陰陽道は確立され、高度な学問が研究されました。実際、知識が豊富であればあるほど、陰陽師としての格は上がっていったのであります。

 

惑星の運行とその占術的な意味

古代の人々はなぜそれほど天文にこだわったのかというと、まず、君主が国をうまく統治するため、それから戦乱をいち早く予測するためでありました。
北斗七星の南にある六星からなる三台という恒星は、二星づつ三階層に分かれているために天子の三階、または泰階(たいかい)とも呼ばれたが、各階層は上下の星で構成され、上層は君主、中層は諸侯三公、下層は庶民を表すものとされていました。
このとき各階層の星の色が揃っていれば天下泰平となるが、不均衡(ふきんこう)であると世の中がしっくりいかないと考えられていたのであります。
恒星は、大気の状態次第ではきらめき方が大分違って見えるが、なかでも天一(てんいつ)、天槍(てんそう)と命名され、武具に見立てられていた恒星が異常なきらめきを見せた場合には、戦争の前兆であると判断されていました。
恒星間を運行する五惑星についても注意深い観察が行われました。特に火星は戦乱を呼ぶ星と見られており、東宮青龍の七宿の角宿を火星が占めると天下に戦いがおこり、房宿の場合は災いが臣君にまで及ぶといわれ、これは角が青龍の角を象徴し、地上の宮殿そのものに対応していると考えられていたからであります。

また、五惑星が皆同じ宿に集合する場合は、易行と呼ばれ、君主の特が高ければ慶事を受け、新たな朝廷を打ち立てることが出来、その恩恵は四方に及ぶと考えられていました。
逆に、徳がなければ災いを受け、滅びてゆくとされていたのです。
二惑星が同宿に入ることを合と呼んだが、この場合は、組み合わせが豊富になるため、いろいろな占い方がありました。特に注意されたのが、火星と木星の合、火星と金星の合などであります。これらはすべて凶兆であり、君主は動いてはならず、兵を動かしても大敗するとされていました。
しかし、このような惑星の運行から占うといっても、地上の支配秩序の影響が天体に投影するという考え方もあって、一方的に天体の影響を地上が受けるのではないという点が占星術のポイントなのです。
一九九八年、奈良県明日香村で、発掘されたキトラ古墳内部に超小型のカメラを入れて調査が行われました。その天上には、方位神である四神が描かれ(朱雀は未確認)、天の赤道や黄道、天の川まで含む星宿図も確認されており、一九七二年に発掘された高松塚古墳にも星宿図は描かれていることから、七世紀末からハ世紀初頭ごろのすでに星の運行を読む技術は日本に定着していたと思われます。

 

(陰陽道 安倍晴明 秘められた占術 引用 参照)

 

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