愛染明王(あいぜんみょうおう『図像抄』〈十巻抄〉より)
敬愛の呪法
呪術のなかには自分の好きになった相手を振り向かせる、夫婦仲をより良くするものがあり、これらは敬愛の呪法と呼ばれています。
そのうち愛染明王法は、まず紙で二体の人形を作り、それからそれそれの人形に男女の名前と生まれの干支を書きます。
次に二体の人形を向かい合わせにして、糸でくくりま す。糸でくくられた人形を今度は紙で包み、その紙の上に、伊弉諾尊(いざなぎそん)、伊弉冉尊(いざなみそん)と二神の名前を並べて書き、その下に猿田彦明神(さるたひこみょうじん)と書きます。
それからこの包みに向かい、愛染明王の真言「オン・マカ・ラギャバザロ・ウシュニシャ・バザラサタバ・ジャクウンバンコク」を唱えます。
次に「世の中は三つ世の神の誓いにて、想う間の仲とこそ、キャカラバア」という神歌を詠み、好きな人の枕の下へそっと忍ばせておくという方法であります。
それから夫婦仲をより良くする呪術として「千手愛法」というのもあります。まず、オンドリひとつがいの尾羽を一本づつ用意します。ただしこの尾羽は生きているオシドリからとったものでなくてはなりません。
そして夫は雄の羽に、妻は雌の羽に朱砂でもって姓名を書きます。これを合わせて縛り、千手観音の真言を五十回唱えて加持祈祷し、それを紙に包んで首に巻いておくというものであります。
また、子宝に恵まれたい人は貴宿日(きしゅくび)「妊娠しやすい日」にセックスをすると子供が授かりやすいと云います。各月によって違いますが、よく聞かれますので、参考に書き記しておきます。
1月、1、6、9、10、11、12、14、21、24、29
2月、7、8、9、10、12、14、19、22、27
3月、1、6、7、8、10、17、20、25
4月、3、4、5、6、8、10、15、18、22、28
5月、1、2、3、4、5、6、12、13、15、16、20、25、28、29、30
6月、1、3、10、13、18、23、26、27、28、29、
7月、1、11、16、21、24、25、26、27、29
8月、5、8、13、18、21、22、23、24、25、26
9月、3、6、11、16、19、20、21、22、24
10月、1、4、9、14、17、18、19、20、22、29
11月、1、6、11、14、15、16、17、19、26、29
12月、9、12、13、14、15、17、24、27
愛染明王(あいぜんみょうおう、梵: rāgarāja[1])は、仏教の信仰対象であり、密教特有の憤怒相を主とする尊格である明王の一つであります。
日本密教の愛染明王は、『金剛頂経』類に属するとされる漢訳密教経典の『瑜祇経』に由来し、この経典は正式名称を『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経』[注釈 1]といい、同経典の「愛染王品第五」に愛染明王が説かれています。
その修法は、息災・増益・敬愛・降伏の『四種法』の利益をもって記述され、その功徳は、「能滅無量罪 能生無量福」(よく無量の罪を滅して、よく無量の福を生じる)とも説かれています。
空海の法力
密教とは空海が唐に渡り、青龍寺の恵果阿闍梨(けいかあじゃり)との運命的な出会いを経てその奥義を伝授されて以来日本に根付いた、文字通り仏教の中の秘密の教えであります。
空海は『大日経』(だいにちきょう)と『金剛頂経』(こんごうちょうきょう)という二大系統の密教の奥義をわずか数か月で修得してしまった天才でありますが、帰国後もその並外れた超能力を発揮してたちまち朝廷人の注目の的になってしまっていました。
空海は、即身成仏といって、今まで成仏(悟りを開いた境地)に至るまでは人によって時間差があり、幾たびかの輪廻転生を繰り替えたなければならないと言われたものを、誰もが生きているうちに成仏できると説いて周囲を驚かせたのであります。これは朝廷内でも物議を醸しだしたが、空海は自らそれを実践して見せたのであります。
弘仁二年(こうにんにねん)(811)正月十五日、時の嵯峨天皇に目の前で即身成仏を見せよと言われた空海は、静かに結跏趺坐(けっかふざ)し、印を結び、真言を唱えだしました。すると、空海の肌は金色に輝きだし、額からは白光が放たれ、背後に後光が放散し始めた云うことです。そして、周囲にはどこからともなく芳香が漂い始めたとのであります。
これはまさに大日如来に違いないと、それを見た人々は空海の法力に圧倒されました。され以後は、天皇をはじめ朝廷内の人々はすべて空海に対して絶大なる信頼を置くようになったのであります。
その後も空海は、その法力でもって、国家鎮護のための修法や日照りの際に請雨の修法など数々の奇跡を見せて朝廷に貢献したのであります。
そんな空海を面白く思わない人物がいました。朝廷の西寺を預かる守敏(しゅびん)という僧侶であります。空海は東寺を預かっていたが、その法力の凄さに負けじと法力合戦を挑んだのです。
まずは雨乞い合戦で始まりました。守敏は雨を司る龍神をすべて集めて封印し、空海に請雨の修法をさせ、恥をかかせようと試みます。
しかし、空海の方が一枚上手で、インドの龍神である善女龍王を日本へ呼び寄せて、雨を降らせてしまったのであります。面目丸潰れの守敏は、こうなったら空海を調伏するしかないと思い、呪詛合戦を申し入れます。これを受けた空海は『軍荼利明王』の修法の壇を築きました。
守敏は『降三世明王』の修法で激しく空海を調伏するが、お互いの法力が激しくぶつかりあい、空は曇り、雷鳴は轟き、地は揺れ動くという状況を呈し始めました。そこは、機転の利く空海であります。わざと自分が守敏の力で絶命したと噂を流したのであります。
その知らせを聞いた守敏は勝ったと安心し、壇から降りるや否や、軍荼利明王の放った矢が(霊的な力)、守敏を貫き、壇から逆さまに落下して絶命してしまったと云います。
修験道
中国では昔から仙人が深山で霞を食べながら数百年も生き続けていると語り継がれてきました。人里離れた山奥に住むことは、普通の人間にはできないような特殊な能力を身につけることが出来ると考えられてきました。
現に山に住む人は、特殊な能力を持ち、たびたび里に下りては病人を治したり、大事な予言を残したりして里人に貢献してきたのです。
それゆえ里人たちは、山とは神秘力は満ち、神々や祖霊が住まう領域であると神聖視してきたのであります。
日本を代表する呪術者達も、同様に山に籠もり、その絶大な呪術力を得てきたのであります。ただし、呪術的能力はそう簡単に身に付くものではないのです。修得するには過酷な修行をしなくてはなりませんでした。
役小角や空海も若き日に山に籠もって過酷な修行をしたのであります。
山には祖霊や大自然の精霊たちが住み、五体を浄化する清明な霊気が流れており、心身を鍛錬するにふさわしい場所が至る所にありました。
また、山に入ることは死と再生を意味していました。
山に入り、今までの俗世の生活で身に付いた垢を落とし、心身ともに生まれ変わるのであります。山岳修行者は山に入り、そこで再生する過程で絶大な呪術を身につけたのであります。
役小角も若いころ、滝行の最中に金色の光に周囲を包まれ、不思議な童子らが現れると一瞬のうちに浄土に連れていかれ、そこで竜樹(りゅうじゅ)菩薩(大乗仏教の理論を整えたインドの大哲学者)から、宝珠を授けられました。小角は再生の灌頂(かんじょう)「儀式」を受け、以後、空を飛ぶことが出来る「飛天の術」などを始め、絶大な呪術力を発揮するようになったのであります。
空海の場合は、抜群のが学問センスを持っていたにもかかわらず、大学において仏教経典解読中心の勉強に嫌気がさして、中途退学し、山岳修行の道に入りました。そこである私度僧(しどそう)から、真言を百万編唱えれば、驚異的な記憶力と大神通力が得られるという「虚空蔵求聞持法」(こくうぞうぐもんじほう)の話を聞きました。
その真言は、「ノウボウ・アカシャギャラバヤ・オン・アリキャ・マリ・ポリ・ソワカ」と云います。
空海は骨と皮だけのように痩せ細りながら、命がけの修行に入って行くのです。
過酷な修行を経て、空海は虚空蔵菩薩の化身とも言われていた明けの明星が動き出し、口の中に飛び込んで来るという啓示を得ました。その結果、空海は絶大なる神通力を発揮するようになったと云います。
何らかの宗教的な啓示を見た後に、霊的に再生されることを、至高体験といいます。このような事例は世界中に見られ、たとえば、聖パウロもイエス・キリストの啓示に遭遇したのがきっかけで、それまでキリスト教弾圧の立場から、キリスト教の大伝道師に変貌したという話は有名であります。
では、大陰陽師の安倍晴明は過酷な修行をしたのであろうか?晴明が若いころ、呪術力を得るために過酷な修行をしたという7伝承は見られません。
しかし、晴明に前世が修行僧であったと指摘された花山天皇は、那智籠千日行という那智の滝での修行をしたことがあり、晴明もこの修行を行ったという話が伝わっております。
鬼神使役術
役小角(えんのおづぬ)は賀茂氏の出で、安倍晴明の師匠、賀茂忠行と同族であるが、その鬼神(式神)を操る呪術は晴明に勝るとも劣らないくらいの威力がありました。
彼は山に入り、過酷な修行を経て絶大な呪術を身に付けましたが、その他にも金脈を見つけたり、薬草を採取して薬を調合する技術も修得していました。
今でも売られている「陀羅尼丸」(だらにがん)というお腹によく効く薬の考案者でもあります。
小角(おづぬ)はある時、吉野の金峯山と葛木の峰に、石橋を架けようと思い思い、多くの鬼神を集めて工事を始めたが、その集められた鬼神の中に呪言神(じゅごんしん)「言霊の神様」である一言主神(ひとことぬしかみ)も混じっていました。
小角はいつものように鬼神たちに指示を出し、時には怒鳴りつけながら昼夜問わず工事を進めさせました。
ただし一言主は夜は働くがなぜか昼間は作業をしたがらないのです。実は一言主は自分の容貌がことのほか醜かったので、他の鬼神に自分の姿を見られたくなかったのであります。
しかし、そんなことはお構いなしに小角は昼間の工事にも就くように強要し、言うことを聞かない一言主に対して怒り、藤の蔓で縛り上げると谷底へ投げ落としてしまいます。この小角の暴挙に我慢ならなくなった一言主は、里人に取り憑いて「小角に謀反の心あり」とその口を通して偽りの託宣をしたのであります。
このこともあって小角は後に、(699年)伊豆へ配流されてしまうのだが、その直後から各地で異常気象に見舞われる現象が起こります。
時の天皇であった文武天皇は心を痛めたが、ある夜、夢の中に北斗星の化身と名乗る童子が現れ、聖人を罪に陥れたのでこのような災いが続くというお告げを受けたと云います。
早速、小角の罪は解かれて、(701年)無事に本土に帰ることが出来たのであります。
小角はそれ以前にも、世の中の人を救うために、災いを祓う神仏を召喚しようと試みました。大峰山上ヶ岳の山頂にある巨岩に座り、『孔雀明王経』や『不動明王経』を唱え神仏を召喚しました。
すると最初に弁財天が現れたが、小角はその優美さに見惚れたものの、もっと力強い神仏が望ましいと思いました。すると弁財天は小角の思いを察して、天河の里へ飛び去っていきました。
次に召喚されたのは地蔵菩薩であったが、慈悲の菩薩であり、破邪の力を持つ神仏が望ましいと思った小角は、またもや一心不乱に祈りを続けました。すると周囲に大きな雷鳴が鳴り響き、憤怒の形相をした神が現れました。
この神こそが召喚するに相応しいと感じた小角は、その姿を急いで木に彫りつけて、堂に祀ったと云います。
その神は蔵王権現(ざおうごんげん)と呼ばれ、日本神話では大国主(おおくにぬし)とともに、国創りをした少彦名命神(すくなびこな)と同一視されております。
気を吸い取る術
古神道や道教、または密教という宗教は性に対して大変おおらかであるのが特徴であります。古神道では男性器や女性器をご神体として祀っている神社があります。これらは、原始シャーマニズムの類感呪術の影響で、生命を生み出す器官、すなわち豊饟(ほうじょう)の神という意味で祀っており、決してふざけていたのではありません。
密教の中でもタントラといって性力(シャクティ)を神聖視し、左道と称される真言立川流なども興隆しました。シャクティとは、「眠る蛇」または、「とぐろを巻く蛇」という意味であり、人間の体内に眠っている壮大な生命エネルギーを指します。このエネルギーを覚醒させるには、ある儀式が行われました。その儀式の準備として「五摩字」という五つの要素が必要とされました。
それは、薬、酒、肉、魚、炒穀(しゃぁこく)であります。薬は今でいうドラッグと同じで、ベニテングダケや阿片なども使用されました。つまり、儀式を行う際には意識を変容させていたのです。
その儀式は三角形の図が描かれた寝台の上で男女が長時間にわたり性交をするというものであります。その性交自体も種々の段取りにそって行われ、儀式にサンカシタ者が全員でマントラを唱え続けたと云います。
陰陽道や道教にも自然、または人間から直接気を採る術があります。ただし、この術を修得するには、気についてかなり鋭敏な感覚を養わなくてはなりません。そのためには、自分の身体の中で気を自由自在に回すことができる訓練が必要であります。
もしそれができるようになれば、相手と向かい合うだけで相手の陽気を取り込むことが出来るのです。
ここで注意しなければならないことは、相手が自分に対して強い愛情を持っているということです。そうでなければ逆に邪気や怒気を吸い込んでかえって不健康になってしまうからなのです。また、相手が健康でないと相手の陰気を吸い込んで病気になってしまうという可能性もあります。
このような高度な方法は、普通の人には無理ですが、道教における房中術を応用したもっと簡単な方法もあります。
房中術(ぼうちゅうじゅつ)とは、中国古来の養生術の一種。房事すなわち性生活における技法で、男女和合の道であります。
簡単に言えば、東洋における性秘術であり、それを行うことによって強い気を得ることができるということです。
(陰陽道 安倍晴明 封じられた呪術 秘められた占術 引用 参照)