陰陽道は平安末期を境にその存在感を失っていきました。その原因としては仏教諸宗派の興隆が挙げられます。
今まで呪術的な職能を一切にになってきた陰陽師に強力なライバルが現れたのです。それは空海をはじめとする密教系の僧侶たち、その密教と山岳系古神道が融合した修験道の修験者等であります。
しかしながら、呪術的諸宗教も陰陽道同様に、中国で発生した陰陽五行説の影響を多分に受けているには違いないはないのです。しかも、呪術的側面においては明確な区別をされている訳ではなく、それらの諸宗教は陰陽道のエッセンスを受容し、同一化してきたというのが妥当であります。
これから陰陽道が大きく影響を与えた諸宗教の呪術の幾つかを紹介していきます。
五大明王法
平安期以後の陰陽道的呪術は、密教的な要素が次第に強くなって行きました。
密教では、怨霊退散のために護摩を焚くことがありますが、これは不動明王の御威(みいつ)で、悪霊を退散させるという意味を持ちます。
密教ではこのように神仏の力を借りて人間の力ではどうにもならない諸問題を解決する方法を加持祈祷といいます。
調伏や息災のためによく用いた呪法としては五大明王法があります。
五大明王とは不動(ふどう)、降三世(こうさんぜ)、軍荼利(ぐんだり)、大威徳(だいいとく)、金剛夜叉(こんごうやしゃ)、の五尊を示します。
なかでも不動明王は悪霊を退散し煩悩や執着を焼き尽くす力を持つ仏教の守護神としても崇められていたのであります。
五大明王の配置
- 中央 – 不動明王 – 大日如来の教令輪身
- 東方 – 降三世明王 – 阿閦如来の教令輪身
- 南方 – 軍荼利明王 – 宝生如来の教令輪身
- 西方 – 大威徳明王 – 阿弥陀如来の教令輪身
- 北方 – 金剛夜叉明王(東密系、不空成就如来の教令輪身)または烏枢沙摩明王(台密系)
五大明王法は五壇法とも呼ばれ、中央に不動明王、東に降三世明王、西に大威徳明王、南に軍荼利明王、北に金剛夜叉の五座を築き、五人の僧が各座について調伏祈祷を行うものであります。
この際、各明王の印を組み、真言が唱えられたのです。護摩壇の中に護摩木を投げ入れながら、この祈祷は場合によっては数日間も続いていきます。
この呪法により、冷泉天皇(れいざいてんのう)や円融天皇(えんゆうてんのう)の病は平癒したといいます。この際に祈祷を取り仕切った良源(りょうげん)という僧侶の背から炎がたち、周囲の目にはまるで不動明王そのものに写ったと伝われています。
陰陽道にもこの五壇法と密接に関係している五行祭壇の呪法があります。
4つの丸柱を立てた五つの祭壇を五行の法則に沿って設置し、東方の壇の丸柱には榊を置き、同じ要領で西の壇に小刀や鈴など、中央には器に盛ったきれいな土、南の壇には蝋燭、北の壇には清められた水や井戸水などを置きます。その次にその奥に神霊が降臨する拠代(よりしろ)としての五色の絹布を配置します。それから各祭壇の前で祈願するのだが、このときは、水、木、火、土、金の壇の順番で行われました。
大元帥法(だいげんすいほう)
国家鎮護、怨敵調伏などに宮廷で用いられた修法として大元帥法があります。
この修法は正式には大元帥御修法と呼ばれ、 八四二年から一八七一年の間、毎年正月八日から七日間宮廷内で行われていたもので、大元帥明王の像を本尊として祈願をするものであります。
現在ではよほどのことがない限り行わない修法であり、この修法を最初に取り入れたのは京都伏見の法琳寺(ほうりんじ)の住職であった小栗栖(おぐるす)の常暁(じょうしょう)でありました。
常暁は遺唐使として入唐し、密教を学びこの修法を修得したと伝えられています。しかもこの大元帥明王像が以前修行中に感得した鬼神の姿と同じであったことに感動し、帰国後自ら朝廷にこの修法を請来するように申し出たと伝えられています。
この修法は俗界と遮断された秘境の地で行わなければならず、無関係のものが立ち会うことが一切許されず、かなり厳しい規定の基で行われていたといいます。調伏にはかなりの効果があったようで、調伏された者はかならず自滅の道を歩むと考えられておりました。
その真言は「ナウボ・タリツ・ポリツ・ハラポリツ・シャキンメイ・シャキンメイ・タラサンダン・オエンビ・ソワカ」などであります。
その他にも天変地異や雨乞い、疫病などの災難を除くために孔雀明王(クジャクみょうおう)の呪法なども行われていました。
孔雀は害虫やコブラなどの毒蛇を食べることから孔雀明王は「人々の災厄や苦痛を取り除く功徳」があるとされ信仰の対象となりました。後年になると孔雀明王は毒を持つ生物を食べる=人間の煩悩の象徴である三毒(貪り・嗔り・痴行)を喰らって仏道に成就せしめる功徳がある仏という解釈が一般的になり、魔を喰らうことから大護摩に際して除魔法に孔雀明王の真言を唱える宗派も多くなりました。また雨を予知する能力があるとされ祈雨法(雨乞い)にも用いられました。
孔雀明王を本尊とした密教呪法は孔雀経法とよばれる。真言密教において孔雀経法による祈願は鎮護国家の大法とされ最も重要視されたのです。
この呪法のエキスパートとしては、修験道の開祖である役小角(えんのおずぬ)が有名であるが、もともとこの呪法は飛鳥・元興寺(現在の飛鳥寺)の慧観(えがん)から伝授されたものだとされています。
この孔雀明王の真言と印を持していれば、一切の災難から逃れられ、安穏を得て延命長寿するとされているのです。
禊法(みそぎほう)
これは裸になり清められた水を身に注いで心身に積もった罪汚れを洗い流すという術であります。
禊(みそぎ)は、罪や穢れを落とし自らを清らかにすることを目的とした、神道における水浴行為であります。
不浄を取り除く行為である祓(はらえ)の一種とされます。[1]
類似した行為に水垢離(みずごり)と呼ばれるものがあります。このほかにも、禊祓(みそぎはらえ)を省略して禊とよぶこともあります。禊祓は、禊と祓を合わせた概念で、夏の季語であります。
神事の前における行として、一般参拝者が手水で清めることも禊の一種であるとされています。
本来、身に注ぐ水は、海水が一番良いとされ、潮カキという海に入って行う神事もあるのです。
禊の際には、同時に祓い祝辞が奏上されたのです。
それは「掛けまくも畏(かしこ)き、伊邪那岐大神(いざなぎだいじん)、筑紫の日向の橘の小戸のあわぎ原に、御禊祓給えし時に生(な)り坐せる祓い戸の大神達、諸々の過事、罪穢れ有らんをば、祓い給え、清め給えと申す事を聞こしめせと恐(かしこ)み恐み申す」というおのであります。
同じく修験道などで、水場で行う行として「滝行」がありますが、これは罪穢れを祓うために行うというよりも、滝に打たれながら真言や祈祷文を唱え、神仏の力を自分の身体に受け入れるという意味で行われていたのであります。
荼枳尼天法(だきにてんほう)
日本には稲荷神(お稲荷さん)を祀った神社が三万有余あると言われています。稲荷神社の祭神は、神道では正式に宇迦御魂神(うかのみたまじん)または倉稲魂神(くらいなだまじん)と呼ばれ、この神は素戔嗚命(すさのおうのみこと)の御子神でもあります。宇迦御魂神は五穀豊穣を司る稲の神様であり、本来全く狐とは関係ないのだが、いつの間にか稲荷神社と狐の関係は切っても切れない関係になってしまったのです。おそらくこれは、狐という動物が古来、神様の眷属や御使いの霊獣として扱われてきたことや密教や修験道の影響を受けたせいだと思われます。
吒天(だてん)とも呼ばれます。荼枳尼“天”とは日本特有の呼び方であり、中国の仏典では“天”が付くことはなく荼枳尼とのみ記されております。
ダーキニーはもともと集団や種族を指す名でありますが、日本の荼枳尼天は一個の尊格を表すようになりました。
日本では稲荷信仰と混同されて習合し[1][3]、一般に白狐に乗る天女の姿で表される[1]。狐の精とされ、稲荷権現、飯綱権現と同一視される[4]。剣[1]、宝珠[1]、稲束、鎌などを持物とします。
密教や修験道では、荼枳尼天または、辰狐菩薩(しんこぼさつ)として奉られ、この神はもともと古代インドのヒンドゥー教の女神、マハカーリーの眷属であります。厨房や台所の神であり、密教においては、ヨガ行者に神通力を与える神として信仰されているが、人の死を半年前に予知し、、人が死ぬとその死骸を食べにくる夜叉でもあるのです。
そしてこの神を祀ると大きな利益を得ることが出来ると信じられていたのであります。この神は、美しい女神が白狐の上に乗っている姿で描かれていることからいつしかその狐だけが誇張されてしまったのだとも考えられます。
安倍晴明の母も伝承では白狐の化身とされ、大阪の信太葛葉(しのだくずは)稲荷神社では稲荷神として祀られております。
この荼枳尼天の力を使った呪術が、荼枳尼天法と呼ばれるものであります。この呪術は秘法中の秘法とも言われ、これを修得すれば立身出世、栄達にご利益があったといいいます。この呪術は口を左腕でおおい、ちらっと舌で舐め、血をすするようにして「ノウマク・サンマンダ・ポダナン・キリカク」と唱えたのです。形式に沿った壇を作り、難解な祈祷文を読み終えてから呪術を行わないと効果はないと言われています。
日本史上最長最大の氏族藤原氏は、ことのほかこの荼枳尼天法に執心だったらしいのです。
当時、朝廷内で勢力があった真言宗の僧侶たちは、藤原氏の氏神である春日や鹿島の大明神が、荼枳尼天が姿を変えて示現したものであるとわざわざ主張したことさえあります。
後醍醐天皇も東寺長者の護持僧であった文観にこの修法を行わせ、鎌倉幕府調伏を命じ、自らも壇を築き金輪の法を修したと云います。
これは天子即位の際に行うもので、四海統領(しかいとうりょう)といい、四方を統治する意味を持つものでありました。
そしてこの修法の中核には荼枳尼天が祀られていたのであります。
飯網法(いずなほう)
荼枳尼天法以外にも、修験道や密教系呪術の中には、狐の式神を使う呪術がありました。ただし、このような呪術は外法といって、正当な呪術というよりも、邪な魔術という見方をされていました。この修法を成就させたものは、子孫が絶えていくと言われていました。
外法のなかには飯綱法といって竹筒の中に管(くだ)キツネ(いずな)という式神を忍ばせておき、いろいろな用途に使役する呪術がありました。
なかでも、飯綱六印法は自分の吐く息を、天狐(てんこ)や地狐(ちこ)に変えて操るといった高度の呪法があったと言われています。
飯綱法には他にも護神法、大天縛(だいてんばく)、小天縛(しょうてんばく)という式神を使う場合がありました。
天縛とは天狗のことで、この呪術は印を結び、念を込めて息を吹きながら天狗を呪う相手に飛ばし、敵を木っ端微塵にしてしまうという恐ろしい威力を持つものであったと云うことです。
飯縄権現(いづなごんげん、いいづなごんげん)とは、信濃国上水内郡(現:長野県)の飯縄山(飯綱山)に対する山岳信仰が発祥と考えられる神仏習合の神であります。
多くの場合、白狐に乗った剣と索を持つ烏天狗形で表され、五体、あるいは白狐には蛇が巻きつくことがあります。
一般に戦勝の神として信仰され、足利義満、管領細川氏(特に細川政元)、上杉謙信、武田信玄など中世の武将たちの間で盛んに信仰された。特に、上杉謙信の兜の前立が飯縄権現像であるのは有名であります。
その一方で、飯縄権現が授ける「飯縄法」は「愛宕勝軍神祇秘法」や「ダキニ天法」などとならび中世から近世にかけては「邪法」とされ、天狗や狐などを使役する外法とされつつ俗信へと浸透していきました。
「世に伊豆那の術とて、人の目を眩惑する邪法悪魔あり」(『茅窓漫録』)「しきみの抹香を仏家及び世俗に焼く。術者伊豆那の法を行ふに、此抹香をたけば彼の邪法行はれずと云ふ」(『大和本草』)の類であります。
しかし、こうした俗信の域から離れ、現在でも信州の飯縄神社や東京都の高尾山薬王院、千葉県の鹿野山神野寺、千葉県いすみ市の飯縄寺、日光山輪王寺など、特に関東以北の各地で熱心に信仰されており、薬王院は江戸時代には徳川家によって庇護されていました。
別称を飯綱権現、飯縄明神ともいわれます。
この外法的呪術は行者や修験者に限らず、平安期から近世にかけて信州を中心に広域に広がり、民間にも流れて行ったと云います。
この飯綱法は、もとは信州の飯綱山の修験が広めたものであり、飯綱山の祭神が飯綱権現といい、天狗の羽をつけた不動明王が狐の上に乗った姿で現されております。
飯綱権現はヒンドゥー教の神であるガルーダ神と同一視されており、仏教を守護する八部衆の一つでもあり、金色に輝く羽を持ち大空を飛翔し、龍を餌にすると伝わっております。
日本では、宇賀神(うがじん)、三宝荒神(さんぽうこうじん)、勝軍地蔵(しょうぐんじぞう)などに変化して信仰されていきました。
武将である武田信玄や上杉謙信、細川政元らもこの飯綱法を立身出世や調伏のために行こなっており、上杉神社に祀られている謙信の兜の前立て部分には飯綱権現の姿が刻まれていると云われます。
(陰陽道 安倍晴明 封じられた呪術 ウィキペディア 引用 参照 )