諏訪大社
長野県
諏訪神社 勇壮な御柱祭で有名な、山と木をご神体とする神社。水をたたえる諏訪湖の東南側と北側に、諏訪大社の上社と下社がある。古くからの上社は男神、下社は女神と考えられてきた。厳冬の時期に、諏訪湖にはった氷が表面張力で裂ける『お御渡』(おみわたり)は、男神が女神に会いに行くしるしだとされる。
諏訪大社は、上社と下社からなり、さらに上社は本宮と前宮、下社は春宮と秋宮に分かれる。本宮には本殿はなく、ご神体は本宮がある山そのもの、春宮のご神体は杉の木、秋宮のご神体はイチイの木である。
祭神は、建御名方神(たけみなかたのかみ)とその妻神、八坂刀売神(やさかとめのかみ)。
下社には兄神である八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)もともに祀られている。
建御名方神(たけみなかたのかみ)は大国主神(おおくにぬしのみこと)の子で出雲の国譲りの際に抵抗して武御雷の神と戦い、この地まで敗走したことになっている。
だが、地元では外地から来た武勇の神さまとされる。(長野県諏訪市、茅野市、諏訪郡)
祭神 建御名方神(たけみなかたのかみ)、八坂刀売神(やさかとめのかみ)ほか
ご利益 五穀豊穣 開運長寿 交通安全など
長野県
御嶽神社 うっそうとした山にたたずむ社殿。北アルプスに属する御嶽山にある神社。山そのものがご神体とされ、古代より山岳信仰の聖地としても有名です。ふもとの大鳥居から、山間に一直線に三百五十八段の階段が続く。針葉樹林に囲まれた空間は、夏でもひんやりと心地が良い。
階段の先に拝殿と本殿があるが、ここは『里宮』といわれる地域だ。はじめに創建されたのは頂上の奥社で、702年(大宝二)のこと、925年(延長三)には、神殿が再建されたという記録もある。
一合目の里宮社は、1503年(文亀二)に再建されたという記録が残る。
かつて登拝前には、ふもとでの百日間の精進潔斎が必要であった。しかし、十八世紀後半から軽精進潔斎が奨励されたことで、御嶽山への参詣は全国に広がりをみせた。(長野県木曽郡)
祭神 国常立尊(くにとこたちのみこと) 大己貴命(おおなむちのみこと)
少彦名命(すくなひこなのみこと)
ご利益 交通安全 家内安全 商売繁盛など
静岡県
富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)富士山と火をしずめるための神。
富士山を望む朱塗りの鳥居。参道から広々とした境内へ出て見渡すと、そこにも朱色が鮮やかな浅間づくりのりっぱな神殿が建っている。しかし、全国の浅間神社の総本山にしては、むしろ穏やかな風情である。
浅間神社は、富士山の噴火を鎮めるために、垂仁天皇(すいにんてんのう)が、浅間大神(あさまのおおかみ)を祀ったのがはじまりとされる。
その後、勅命により806年(大同元)に坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)が現在地に壮大な社殿を造営し、その後、武家や朝廷の尊崇を受けてきたという。
浅間大神とともに祭神とされる木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と一夜の契りを結んで懐妊したが、瓊瓊杵尊が自分の子とは信じなかったため、『炎の中で無事に出産してみせるから信じなさい』と告げ、言葉通り無事に出産したという逸話を持つ。
以来、火除けの神さまとみなされている。(静岡県富士宮市)
祭神 浅間大神(あさまのおおかみ) 木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)ほか
ご利益 火難消除 旅行安全 安産祈願など
福井県
気比神宮(けひじんぐう) 海外文化の受信地だった北陸道の総鎮守。大鳥居をくぐり石畳の参道を東に進むと、垣が張り巡らされた境内が現れる。朱塗りの中鳥居を過ぎたころには、南向きの社殿が鎮座している。
気比神宮は日本海に面した敦賀(つるが)にある。日本海の向こうは大陸。かつて交通の要衝であると同時に、敦賀は海外文化の受信地でもあった。
神宮の神域(神が宿る場所)には、『氣比の松原』も含まれる。平安時代に、朝鮮半島北部にあった渤海(ぼっかい)の使節を迎えるための『松原客館』がこの松原にあったという記録も残る。
祭神の伊奢沙別命(いささのわけのみこと)は、ある日、武内宿祢(たけのうちのすくね)の夢に現れ、自分の名前と王子(即位前の応神天皇)の名前を取りかえてくれるように頼んだ。王子がこれに同意すると、翌朝お礼のイルカが浜に打ち上げられていたという。
このことから、伊奢沙別命は食べ物の神さまとも考えられている。(福井県敦賀市)
祭神 伊奢沙別命(いささのわけのみこと) 仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)
神巧皇后(じんぐうこうごう)
ご利益 家内安全 商売繁盛 航海安全など
愛知県
熱田神宮 勇者の剣をご神体とする伊勢神宮に準ずる神社。自動車が多い愛知県ならではと言える、車のお祓いができる神社。
広大な敷地内には、織田信長が『桶狭間の戦い』で勝利した際にお礼として奉納した、
『信長塀』という瓦葺の築地塀もある。
熱田神宮のご神体は、草薙剣(くさなぎのつるぎ)である。素戔嗚尊(すさのおのみこと)が、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したときに体内から現れた剣である。素戔嗚尊は天照大神に献上。天照大神は天孫降臨にさいして邇邇芸命(ににぎのみこと)にそれを渡した。
剣は、伊勢神宮に納められていたが、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の際に、伊勢神宮の斉宮だった叔母の倭比売命(やまとひめのみこと)からこれを授かったという。
日本武尊は東征の途中で命を落とすが、その直前に契りを交わした宮簀媛命(みやすひめのみこと)のもとに剣が残り、宮簀媛は、神剣をまつるために熱田神宮の前身の社を建てたのである。
そして、源頼朝をはじめとする武家にも崇敬された。(愛知県名古屋市)
祭神 熱田大神(あつたおおかみ) 素戔嗚尊(すさのおのみこと)
日本武尊(やまとたけるのみこと)
ご利益 家内安全 無病息災 開運招福など
京都府
上賀茂神社 人間界に生まれ天に戻っていった神さま。上加茂神社と下鴨神社は、それぞれ鴨川の上流と下流に社を構えることから、こう呼ばれる。
上流にある上加茂神社の正式名称は『賀茂別雷神社』(かもわけいかづちじんじゃ)。
境内は広く、凛とした空気が漂う社殿の前には、1メートルほどの高さに盛られた円錐形の砂がある。この神社の創建のきっかけは、神山(こうやま)という峰に神が降りたったことによる。その神山を模した神籬(ひもろぎ、神のよりしろ)が、この盛砂であります。
下鴨神社の祭神・賀茂建角身命(かものたけつぬみのみこと)の子の玉依姫(たまよりひめ)が、ある日、鴨川のほとりで遊んでいると上流から丹塗りの矢が流れてきた。その矢を床に置いておくと、懐妊して男の子を産んだ。この男の子に賀茂建角身命が、父親は誰かと尋ねると、『自分の父は天津神(あまずかみ)である』といって、屋根を突き破り天へと帰ってしまった。子の子こそ、上賀茂神社の祭神の賀茂別雷大神である。(京都府京都市)
祭神 賀茂別雷大神8かものわけいかづちのおおかみ)
ご利益 家内安全 交通安全 災難除けなど
京都府
北野天満宮 意外にも時間がかかった菅原道真の祭祀。豊臣秀吉が、北野天満宮の一画で大茶会を催したのは1587年(天正十五)。その縁もあってか、現在の本殿(国宝)は、秀吉の遺児・秀頼によって1607年(慶長十二)に造営され、華やかな桃山文化をいまに伝えている。
祭神の菅原道真は、右大臣まで上り詰めた才人だった。だが、出世をねたんだライバル・藤原時平の讒言(ざんげん)により大宰府に配流され、二年後、失意のうちに世を去る。
この直後より、都では時平が病死するなどの異変が続き、内裏にも雷が落ちた。
ここまではよく知られた話だが、このあと、北野天満宮に道真が祀られるようになるまでには、40年以上の歳月がかかる。
正式に北野に神殿が建設され、道真が祭神となるのは、947年(天暦元)。この十年後に、右大臣藤原師輔8ふじわらのもろすけ)が神殿を増築した。(京都府京都市)
祭神 藤原道真(すがわらみちざね) 中将殿(ちゅうしょうどの)
吉祥女((きっしょうめ)
ご利益 学業成就 家内安全 交通安全など
京都府
伏見稲荷神社 朱塗りの鳥居が山を飾る『お稲荷さん』の総本社。まるでトンネルのような、稲荷山へと続く何千もの鳥居。伏見稲荷といえば、なんといってもこの『千本鳥居』が有名だ。
稲荷山には大小さまざまな祠(ほこら)や塚が祀られ、それらを結ぶ道にも朱色の鳥居がはてしなく並ぶ。これをくぐり抜けながら小高い丘のよ うな稲荷山を巡拝することを『お山めぐり』という。
約4キロの道をめぐり終えるには2時間ほどかかる。
創建は711年(和銅四)の初午(はつうま)の日といわれる。稲荷山のあたりを支配していた秦伊呂具(はたのいろぐ)という豪族が、ある日、餅を的にして矢を放ったところ、餅が白鳥になって稲荷山の峰に飛び去り、稲が生えたという。そこに社を祀ったことから、『稲生り(いねなり)』が転じて『稲荷』になったといわれる。
主祭神の宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)は穀物の神さまで、はじめは豊穣を願う農民の信仰を集めた。(京都府京都市)
祭神 宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ) 大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)
ご利益 商売繁盛 家内安全 交通安全など
奈良県
春日大社 平城京の鎮護を願い、藤原氏が建てた氏神社。春日山全体と、その周辺の芝原や平野地帯が、春日神社の敷地だ。一の鳥居から一五分ほどの、のどかな自然のなかを歩くと、石灯篭が増えてゆく。南門にいたると、圧倒的な釣灯篭が迎えたくれる。
春日神社は、藤原氏の氏神である。平城京遷都の710年(和銅三)、新しい都の守護のために、藤原不比(ふじわらふび)らが、鹿島神宮の神・武甕槌命(たけみかづちのみこと)を勧請したのが、そのはじまりである。その後、768年(神護景雲二)に、藤原氏系の称徳天皇が勅命を出して、香取神社から経津主命(ふつぬしのみこと)を、河内の国(大阪府)の枚岡神社(ひらおかじんじゃ)から天児屋根命(あめのこやねのみこと)と比売神(ひめがみ)を迎える。
こうして四神がそろい社殿の全容がととのった。
このうち天児屋根命は、天岩屋伝説にも登場し、天孫降臨にも従った神さまで、藤原氏の祖先・中臣氏の祖であるとされる。(奈良県奈良市)
祭神 武甕槌命(たけみかづちのみこと) 経津主命(ふつぬしのみこと)など
ご利益 開運招福 商売繁盛 災難除けなど
奈良県
石上神宮 霊剣が祭神の『朝廷の武器庫』。天理市から桜井市に続く古道(山辺の道)を少し歩くと、うっそうとした森のなかに石上神宮が現れる。境内には放し飼いのニワトリ(『神鶏・しんけい』とよばれる)が、わがもの顔で道を横切る姿も見られる。この社は物部氏の氏神であり、南方にある大神神社(おおみわじんじゃ)とならぶ日本最古の神社でもある。
祭神は、布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)。神武天皇が熊野で意識不明になったときに高倉下命(たかくらじのみこと)が献上した霊剣である。この霊剣の力によって神武天皇は息を吹き返し、熊野の荒ぶる神々を征服した。はじめは、宮中で祀られていたこの剣は、崇神天皇が物部氏の伊香色雄命(いかがしこおのみこと)に命じて、現在の場所に移されたといわれる。
石上神宮は、大和朝廷の武器庫とされ、また緊急時の天皇の避難所にもなっていた。軍事と警察を担当する物部氏が管理していたという。(奈良県天理市)
祭神 布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)
布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)など
ご利益 開運招福 商売繁盛 災難除けなど
奈良県
一言主神社 一言であれば、どんな願い事も叶えてくれる。地元では、一言だけ願いを叶えてくれる『いちごんさん』として親しまれているという。評判通り、この神社には威圧的な感じは全くない。鳥居をくぐって直進し階段を上がると、式内社らしい古色蒼然とした境内と拝殿がある。
雄略天皇が葛木山に登ったとき、向かいの尾根に、自分と同じような姿をした一行が見えた。
自分こそが天皇である。似た格好をできるものなどいるはずがないと怪しみ、矢を射かけようとすると、向かいの一行も同じ動作をする。
名を名乗れと命じると、『私はいいことも悪いことも一言で言い放つ一言主大神である』という。天皇はかしこまって、『現実の方とは思いませんでした。お許しください』と謝罪した。
天皇が弓矢や剣、従者の着物などをさしだしたところ、一言主大神は山の入り口まで見送ったという。(奈良県御所市・ならけんごせし)
祭神 一言主大神 大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)
(=雄略天皇・ゆうりゃくてんのう)
ご利益 合格祈願 縁結びなど
奈良県
大神神社(おおみわじんじゃ) 三輪山を祀った、日本最古の神社。大神神社には本殿がない。三の鳥居の向こうに見える三輪山がご神体であり、神社の古代の形態をいまに伝える。その三輪山のふもとには、日おおなむちのかみ本最古といわれる山辺の道がとおり、古代から人々の生活を支えていた。今でもこの辺りは、神話の世界が続く道として、観光客に人気が高い。
主祭神の大物主大神は、少彦名神が大国主神(大己貴神・おおなむちのかみ)のもとを去ったあと、海の向こうから現れて国づくりを手伝った神とされる。大国主神の分身が、大物主大神とされる場合もあるが、実際には、神話が作られてゆく過程で、同一神としてみなされるようになったようだ。
いずれにしても、国づくりに関わった神さまとして、皇室ともゆかりが深い。
伊勢神宮が皇室とのかかわりを深める以前は、この大神神社で皇室の祭祀が行われていたらしい。(奈良県桜井市)
祭神 大物主大神(おおものぬしのおおかみ)大己貴神(おおなむちのかみ)
少彦名神(すくなひこなのかみ)
ご利益 五穀豊穣 商売繁盛 交通・航海安全など
(開運 パワースポット神社に行こう お参りしたい神社百社 神様と神社 参考 参照)