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民衆と共に生きた陰陽道信仰

民衆と共に生きた陰陽道信仰

庚申信仰

皆さんは庚申信仰(こうしんしんこう)をご存知だろうか?
庚申信仰は最近でこそあまり見られなくなったが、江戸時代に一般民衆を中心に全盛を極め、明治以降は根拠のない迷信として排撃されたこともあり、次第に闇の彼方に埋没していったようです。
この庚申信仰は、何を隠そう、陰陽道に由来するのです。ご利益としては延命長寿を中心に厄病退散などだが、そのルーツは中国の民間道教に発生し、陰陽道の一種として平安時代に伝わったものです。庚申信仰は、通常、庚申講という講組織単位で行われるようになったようです。

それでは庚申信仰はどのようなものであったのでしょうか?
干支の一つの庚申(かのえさる)の日の夜、社寺の庚申社や、庚申堂に集まり、お神酒や精進料理を供えて、祭事を行ったのち、飲み食いしながら、一晩過ごした習俗であります。
なぜ、徹夜が要求されたのでしょうか?それは次のような理由によるのです。
どんな人間にも、三戸(さんし)の虫が体内におり、庚申の日に限って、人間が寝ている間に天上界にのぼり、司命神に、その人間のすべての行状を逐一報告すると信じられていたからであります。

 

三戸の虫こそは、人間の生死を支配する司命神から遣わされたスパイでありました。そのスパイは洗いざらい報告するとされていたから、当の人間にとってはたまったものではないのです。
というのも、司命神は、その報告をもとに総合判断し、悪行が多ければ、それだけ寿命を縮めていったとされていたのであります。
三戸の虫、そのものを殺す直接の方法もあるにはあったが、五穀断ちをするなど、長期間の苦修練行をともなうものであったので、一般民衆がおいそれとできるものではなかったのです。
そこで、三戸の虫の報告を防ぐための手っ取り早い方法として、当夜は眠らずに過ごすということが選ばれたのであります。

 

三戸の虫 調伏のまじない

さて、神社や寺院などには、庚申堂が今でも残っていることが多いのを見かけます。
また、地方では、路傍に庚申塚が散見されるのです。それは、庚申信仰の名残であるが、庚申堂や庚申塚などには、見ざる、言わざる、聞かざる、の三猿の彫像が置かれたり、その像が刻まれたりしています。
この三猿は、三戸の虫を調伏する呪術の象徴化でもあったと考えられる説もあるのです。
それはさておき、庚申信仰の対象であるが、おおむね、神社の場合は、猿田彦(さるたひこ)、寺の場合は、青面金剛(しょうめんこんごう)に固定化されております。その両者があくまでも主軸でありますが、実際には諸神諸仏や民間信仰などが複雑に習合しているようです。
庚申の甲は『さる』と訓み、そこから神道の猿田彦が習合したのです。仏教と結びついたのが、疫病退散に効験あるとされた疫神の青面金剛であります。
明治維新まで日本は神仏習合が普通であったから、猿田彦と青面金剛が共存していたのであるが、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって、分離させられた経緯があります。
庚申は陰陽五行でいえば、いずれも金性(こんしょう)に相当するのです。
そのため、この日には金気(かなけ)のものを避けるという習慣がありました。

また、庚申信仰にともなう俗信として、男女間の交わりの禁忌がありました。庚申の日の夜、同衾(どうきん)して子供ができると、その子は盗人などになってしまうと信じられていたのであります。

庚申信仰の現状はどうなんでしょうか?
一般社会からは、まったく省みられずに湮没に瀕していると言ってもよいです。だが、今でも地方の一部では、庚申の縁日に集まるところもあるのです。酒を飲んで親交を深め、夜半には散会するといった、親睦的な飲み会が中心のようであります。
愛飲家にとっては、これほど都合の良い信仰習俗はないとも言えないとも言えますね。

 

民間習俗 (暦法信仰)

時代を経(へ)るにつれ、陰陽道は各種の宗教に拡散しながら沈潜していくが、その一方で、民間習俗に分け入り、その存在性を際立たせることにもなりました。
すなわち、卑近な例をあげれば、生まれ年の干支をはじめ、仏滅や友引といった六曜、厄年、還暦、鬼門などがあります。さらに、九星、年回り、相性、卜占(ぼくせん)、籤引き(くじびき)、方位、禁忌、祈祷、禁厭(きんえん)、呪物など陰陽道を源流とする民間習俗ないし、民間信仰は驚くほど多いのです。
そのいずれもが、程度の差異はあるものの、、多様な呪術と結びつき、複雑な禁忌を包摂しつつ、一般に定着しているのです。

 

民間習俗として不動の地位を確立しているのが、干支や六曜などの暦法であります。十千十二支(じっかんじゅうにし)は、年月日・時刻・方角を表しただけではなく、個人の性格や運勢、男女間や対人関係の相性、冠婚葬祭など、万事にわたり、日取りや方角の吉凶の判断をする根拠とされるに至りました。
干支にもとづいた習俗として有名なのは、丙午(ひのえうま)にまつわるものです。丙午は、六十年ごとに繰り返される干支のうちの四十三年目にあたり、火の兄(え)「陽」と訓(よ)めるところから、火事の多い年として注意されました。同時に、この年に生まれた女性は、炎のごとく気性が激しく、男を滅ぼしてしまうとされ、縁組に大きな支障をきたした程でありました。
そのため、女子の出産を忌避する風習となり、間引きが盛んに行われたのであります。

そのほか、干支に関していえば、前項の庚申信仰や初午(はつうま)があります。初午は二月最初の午の日に、稲荷系の神社で行われる行事であります。初午は火と関係があり、初午の早い年は火事が多いとされました。
一方中国の小六壬(しょうろくじん)に由来する六曜は、いまだに冠婚葬祭の日取りを決定しているといっても良いでしょう。
六曜は、先勝、友引、先負(せんぷ)仏滅、大安、赤口(しゃっく)からなります。

 

方違え信仰(かたたがえしんこう) 憑物

また、一般にかなりの影響力を持つのが、家の新増改築などの家相や、旅行、引っ越しなどの移動に伴う方位の禁忌(きんき)であります。そのもととなったのが、方違え信仰なのであります。
方角には吉凶があり、凶の方角に向かうと万事が凶になるとされ、その回避策として編み出されたものなのであります。
平安時代までに陰陽五行説。十干十二支などを組み合わせた方位観が、ほぼ擁立し、とりわけ大将軍(八将神のひとつで、太白=金星の精)や、金神(こんじん)『強力な方位神、別名で詳述(しょうじゅつ)』がいる方角を犯すと、大変な凶に見舞われるとして恐れられました。

 

方忌み(かたいみ)は、向かおうとする方角が凶に当たる場合、(いわゆる方塞がり)、それを避けるために方塞がり以外の場所(方違い)へ行き、そこを経由すれば、方角の凶事(方祟り)を免れられると考えられたのです。
方違えは呪術的な迂回策でもあったわけであります。

 

陰陽道のなかで最も呪術的な要素が強いのは、憑き物でありましょう。
憑物信仰は、陰陽道に吸収された呪禁道(じゅこんどう)の蠱毒(こどく)につながるもので、闇の陰陽師が関与していました。
憑物とは、信州のクダ狐や、オサキ狐、土佐の犬神、備中の蛇神((とうびょう)などで、いづれも人に憑いて、怪異をなすものとされました。

巫女(ふじょ)や行者などの異形の民は、そうした動物を飼いならしているから、特別な霊能力があると見られたりしました。また、特定の家に住むものだと信じられていました。

憑物が宿る家は裕福な家が多いが、それは憑物がその主人の求めに応じて金品を調達するためとされ、その家の悪口を言っただけでも、祟があると言われました。こうした憑物信仰は、今でも地方に行けばもいるといわれております。

 

性神信仰 繁栄と豊穣のシンボル

『我が身は成り成りて、成り合わざる所一所あり。故れ。この我が身の成り余れる所を汝が身の成り合わざるところに刺し塞ぎて、国土生み成さむ・・・』
周知のように『古事記』の伊邪那岐尊伊邪那美命(いざなぎのみこと)と伊耶那美命(いざなみのみこと)の会話の一節であります。

それは、陰陽合体のよって国土や神々がつくられていったという道教説の日本的な展開であるが、陰陽二元説でいえば、男と女はそれぞれ陰と陽に分けられるのです。男女の別は性器に顕著に現れます。

民間習俗として、女陰や男根に似たものを祀る風習があります。自然石だけではなく、女陰や男根の形態を石などに彫像した、いわゆる陰陽石は、稚拙なものから、リアリズムの極致に及ぶものまで、道の辻に置かれていたり、社寺に祀られております。

明治維新後、淫祠邪教の対象となり、そのほとんどが廃棄されたものの、それでも全国に多く残っているのも事実であります。そしてその信仰は、驚くほど根強いものがあります。

それは何を物語るのでありましょうか?

そもそも、性器を木や石など堅固なもので模刻する行為自体生命力の謳歌、発揚にほかならないのであります。
端的に言えば、陰萎した男根を祀った社寺が無いのがその理由です。しかも男女の性器はともに著しく誇張されています。男根はすべて異形なまでに勃起した状態でのものであり、荷女陰にしてもその特徴を異様に際立たせているものが多いです。
それは、子孫繁栄の願いのシンボルであると同時に、豊穣祈願にも繋がっています。

民俗学の研究によると、田植えのあと、夫婦の営みによって五穀豊穣を祈るといった風習があったことが知られるが、それは陰陽合体の形を示すことによって、その形が伝染して、新たなものを生み出すようにまじなう予祝の呪法でもありました。
その神道的な展開が、全国的に行われる田植祭に結実しているのであります。

 

境界を護る神々

生命力や子孫繁栄のシンボルたる男女の性器の模刻は、同時にまた、邪気や災厄を祓い、除去する呪術の源泉として崇拝されました。それは、道祖神とも習合されました。
道祖神は、主に村落の境などに祀られているが、これは道路の悪霊を防いで、通行人の安全を守る神であり、なおかつ、境界内(村の地域)に悪霊が入ってこないように防ぐ神であるのです。

 

邪霊の侵入を防ぐという考え方は、源流は道教的なものでもあるが、日本では、塞の神(さいのかみ)ともいうのです。そしてその形態は性器状のものが多いが、なかには男女が交合した姿を象ったものもあります。
ともあれ、性器という生命の根源のパワーで、邪気や悪霊を祓うとともに、男根石を撫でたり、女陰石を跨いだりすることによって、陰陽の元気を採り入れようとしたのであります。

 

性神信仰は、民間の陰陽師らによって、普及し、習俗化されました。性にまつわるさまざまな願い事、つまり、良縁、子宝、安産、夫婦円満、泌尿器官の病気平癒の祈願が盛んに行われました。
さらに、地蔵信仰とも結びつき、子育てや子供の守護にも関与するなどさまざまに習合していました。
なお、俗にイモリの黒焼きというまじないがあります。その粉末が媚薬、すなわち惚れ薬として江戸時代に用いられました。イモリは交尾欲が旺盛で、節を隔てた竹に、交尾期のイモリを入れておくと、節を破って交尾すると言われるほどであります。
したがって、交尾状態のイモリを黒焼きにしたものが、最も効能が著しいとされていました。イモリにしてみれば興奮状態のまま燃やされ、黒焼きにされたのではさぞ、辛く苦しく無念だったろうと思われます。
イモリの黒焼きの使用方法は、自分で所持したまま、意中の相手に近づくだけでも、十分効果があるとされましたが、気づかれぬようにして、その粉末を相手に振りかけたり、相手の飲食物の中に混ぜておけば、相手が自分に惚れるようになると信じられていたのであります。
それは、陰陽師が行った蠱毒(こどく)という呪術の世俗化であったように思われます。

 

祟り神から主神へ、近代金神信仰の変容

金神(こんじん)は、陰陽道が生み出した最も恐ろしい方位神であるとされます。
この祟り神のいる方角に対して、土木や建築をおこなったり、出行、移動など事を新たに起こすことを厳しく忌む風習が、日本の土壌にまとわりついていたのです。金神信仰は、今もなお、多くの人々の意識のなかに入り込み、さまざまな禁忌でその行動を束縛しているとも言えます。

なんとなれば、金神のいる場所を犯すと、金神七殺(こんじんななさつ)といって、家族が七人殺されると信じていたからであります。そして、質が悪いことに、金神は一箇所に留まらないで、遊行する性質の神なのであります。
たとえば、『簠簋内伝』(ほきないでん)によると、金神の居場所は、甲子年(かのえねとし)は、午未申酉(うまひつじさるとり)の方角という具合に年によって遊行するとされます。
だが、それも金神の遊行に関する説の一つに過ぎません。というのは、一定の年に動き回るだけではなく、四季や日時などによっても遊行するからであります。
金神の数にいたっては、八百八金神と称されるほど多く、その祟りは、諸説錯綜複雑極まりないものになっていったのです。

こうした信仰は、民間陰陽師の伝道布教によって農民層を中心に広範囲に波及しました。
彼らは家の新築や増改築にあたり、陰陽師らに金神封じや金神除けなどの法を依頼し、祟りの回避を腐心したのです。その影響はことに、関西以西で凄まじいものがありました。

 

金神信仰と金光教

その渦中にあって、幕末維新期に岡山県浅口郡に成立したのが、金光教(こんこうきょう)であります。
こともあろうに、金神を主神として祀るといいます。とてつもないインパクトを持った新宗教の出現でありました。その創唱者の名を金光大神(旧名=赤沢文治)と言いました。
金光大神は日頃から金神を畏怖していましたが、家族が次々と死ぬなど、金神七殺の祟りに見舞われていたのであります。しかも自ら大病となり、死に瀕した極限の状況で、金神と直接会話ができるようになったらし いのです。

金光大神は金神を祟り神=悪神として恐れている限り、お蔭を与えてくれることは無いとし、逆に金神のいるところに、心から祈りを捧げてこそ、本当のお蔭をいただけると考えたのであります。
つまり、悪神とされた金神こそ、実は宇宙の最高神=天地の祖神(おやがみ)であり、愛の神であり、天地金乃神(てんちかねのかみ)として、讃えたのであります。それはまさに、既成の金神の概念を打ち破るコペルニクス的な転換でありました。
ここに至って、旧来の金神信仰は、近代の燭光にて照らし出され、ネガティブな閉塞状態から、ポジティブな開放状況へと巨歩を踏み出すことになりました。

金神大神は、金神から全面的な信任を得て、広前に座り、教えを説き続けたのです。『如何なる所、如何なる時、如何なる方も、人間に宜しきは吉所(よきところ)。吉日(よきひ)。吉方(よきほう)なり。日柄方位などは、神が氏子を苦しめることではない』『家相は氏子の都合が良いのがよい家相じゃ。日柄方角はいらない。いつでも普請(ふしん)はできるから』の金神の意思を伝え、俗信の一切を否定したのであります。

日柄方角に関して金光大神は、金神の留守を窺う人間の勝手で無礼な行為とし、断固として戒めたのでありました。
金神の別称に『丑寅未申鬼門金乃神(うしとらひつじさるきもんかねのかみ)』や、『日天四(にちてんし)、月天四(がってんし)』があります。後者の語尾の四は普通、子と記すが、金光大神は、四は死に通ずるとして忌み嫌う人達の意識を正すために、あえてこの四を用いたとされています。

 

金神信仰と大本経

こうした金光教の金神の神概念を基本的に継承したのが、京都府綾部市で誕生した大本教(おおもときょう)であります。
大本開祖・出口なおに突然、『艮の金神(うしとらのこんじん)』と名乗る神が降りたのが発端であります。
そしてなおは、神懸かり状態で、『三千世界一度に開く梅の花。艮の金神の世になりたぞよ』という初発の神勅を発令、世の立て替え・立て直しを宣言したのであります。
なおに憑いた艮の金神は、金光教の天地金乃神の延長線上にありました。ばが、それ以上に、強烈な神威に際立たせているのが、艮の金神の特徴でもあるのです。
艮は丑寅(うしとら)東北の方位=鬼門であり、鬼門は方角のなかで、最も祟りがあると忌み嫌われた最悪の場所であります。
つまり、最悪の場所の最悪の神という意味が、艮の金神に込められているのであります。

ところが結論から言えば、この艮の金神こそ、宇宙創造の神であり、世界人類の創造神にして守護神なのでありました。

大本の創造神話によると、艮の金神の別名は国常立命(くにとこたちのみこと)であります。太古の時代、世界を統治していたが、あまりに厳格な政治体制を敷いていたため、ほかの神々から敬遠され、完全に孤立してしまいました。
そのため、後事を他の神々に託して自ら退任して、世界の鬼門の方角にあたる神国日本へ行って引きこもったのであります。
他の神々は、艮の金神を完全に封じ込めるために、全力で封殺儀式を行いました。
正月のしめ縄や節分での追儺(ついな)「鬼は艮の金神の象徴」、餅まきとそれを食する儀式、どんど焼きなどはすべて、艮の金神への調伏儀礼が習俗化したものであるといいます。

その一方で、他の神々は、国を乱して跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)し、悪がはびこり、どうにもならない状態になりました。そこで、艮の金神は、そうした悪神を倒して、再度復活する覚悟を固め、因縁の御魂である出口なおに神懸かりして再臨したというものであります。

結果的には、近代の金光教や大本教の出現によって強烈な祟り神としての金神信仰の負性の呪縛は、大きく逆転したことは間違いないでありましょう。
さらに言えば、呪縛を解かれた金神信仰の時代が新たに始まったともいえるのではないだろうか。

国家による二度の弾圧を受けた大本教からは、巨大にして過剰なエネルギーの枝分かれ現象ともいうべ、き、数多くの分岐を生成しました。それはまた、金神信仰の端倪(たんけい)すべからざる圧倒的な存在性の象徴的景観でもあるのです。

 

(陰陽道の本など 引用 参照)

 

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