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日月封じを使った陰陽師

日月封じを使った陰陽師

月夜

陰陽師といえば平安朝で活躍した安倍晴明の名がすぐに浮かび上がるであろうが、それ以前にも清明に勝るとも劣らないほど優れた資質を持った陰陽師は何人かいたのです。
なかでも吉備真備(きびのまきび)という人物は群を抜いている。伝承によるとこの人は相当協力な呪術を使うことができたと伝えられている。

それはなんと月と太陽を封じてしまう呪術というのだ。
吉備真備は、学問の方も抜群の人で、学者としても超一流であった。それゆえ大陸の先進文化を学んでくる使命を受けて、遣唐使として唐に派遣されたのだ。
唐に渡ってからもその天才ぶりを発揮して、その才能に唐の人たちでさえも舌を巻いたほどであったという。ただしどこにでもやっかむ者はいるもので、真備の才能を妬み恐れをなした唐の官僚や政治家たちは、真備の弾圧を始めたのだ。彼らは真備を楼に閉じ込め帰国をさせないようにし、数々の難問をふきかけてなんとか屈服させようと躍起になった。
そんな折、真備は超常現象を体験する。真備の前に鬼神が現れ、自分の正体は以前日本から来た安部仲麻呂(あべのなかまろ)(安部晴明の先祖)であると告げたのだ。そしてそれ以後、鬼神は唐人たちから苦しめられる真備をいろいろと手助けしていったのである。
鬼神の助けもあってどんなに難問、奇問を出しても解決してしまう真備に苛立った唐人たちは、ついに真備の殺害を決する。唐人たちの悪だくみを知った鬼神は、そのことをいち早く真備に告げると、真備は作られてから百年経った双六の筒と双六の盤を手に入れたいと頼んだのである。
真備の言うとおりに、鬼神は指定された道具を揃えてやってきた。真備は秤の上に、筒と盤を乗せると筒を覆った。すると、月と太陽が消失し、一瞬にして唐の国全体が暗黒の世界になったのである。この異常な現象に驚いた唐の皇帝は、すぐに方術使いにその原因を究明させると、月と太陽を消したのが真備だということがわかった。
皇帝に派遣されてやってきた役人が、厳しく真備を詰問した。
『そんなことは知りません。ただ、あなたがたが、私を責め滅ぼそうとしているので、日本の神仏に加護を祈念しただけです。私を日本に帰してくれるなら再び月と太陽は現れるかもしれません』と真備は涼しい顔で答え、筒の覆いを取った。すると、たちまち消えていた月と太陽が現れ、唐の国は明るくなったのである。
こうして晴れて無事日本に帰国した吉備真備は、以後政治家としても優れた手腕を見せ、数々の朝廷の危機を救ったという。

 

 

真備の他にも平安初期になると、すぐれた陰陽師が何人か出現している。有名なところでは、弓削是雄(ゆげのこれお)と、滋岡川人(しげおかかわんど)の二人の名前が挙げられる。

 

弓削是雄(ゆげのこれお)は、占験の名人と呼ばれ、彼の占術の腕前は抜群であった。弓削という姓は前述の蘇我氏との権力闘争に破れた物部氏の支流ともいわれている。物部一族は武門の家柄で有名だが、本来は武術よりも古神道に由来する、高度な占術や呪術を有する一族として名を馳せていた。物部の物とは、物質のことではなく魂のことを表しているのだ。
だとすれば、その一族の血を引く弓削是雄(ゆげのこれお)、または後述する弓削道鏡(ゆげのどうきょう)らが、すぐれた占術や呪術を操る才能を持っていたとしても、なんら不思議なことはない。

 

弓削是雄(ゆげのこれお)のエピソードに次のような話がある。
出張先でたまたま是雄と同宿した徴税吏(ちょうぜいり)が、悪夢にうなされていた。是雄は夢占いといって、夢の内容からこれから起きることを判断する占術を使って徴税吏の悪夢を見てみると、原因は鬼が徴税吏の命を狙っていると出た。次に是雄は式占いで占ってみると、家の寝室の鬼門(東北)の方角にその鬼が隠れているのがわかった。そこで是雄は家に帰ったら、弓をその方角に向けて威嚇してみるようにとアドバイスをしたのだ。
徴税吏(ちょうぜいり)は家に着くなり是雄に言われたとおりに行動すると、寝室の鬼門に隠れていた者が慌てて飛び出してきた。
現れたのは手に刃物を持った僧侶で、徴税吏(ちょうぜいり)が留守の間、彼の妻と不倫の関係になり、共謀して夫である徴税吏(ちょうぜいり)を殺害しようとしたのだと白状したのだ。

弓削是雄(ゆげのこれお)のおかげで命が助かった徴税吏(ちょうぜいり)は、あらためてその占術の正確さに感嘆したという。

 

続いて滋岡川人(しげおかかわんど)であるが、この人物は陰陽寮で陰陽博士、陰陽頭を歴任したエリートで、陰陽道においては他に並ぶ者はいないとまで言われた人物である。

 

この人の有名なエピソードとしては、恐るべき地の神から、隠形(おんぎょう)の術を使って逃げ延びたという話がある。川人(かわんど)は、崩御した文徳天皇(もんとくてんのう)の墓陵にふさわしい土地を、大納言の安部安仁(あべのやすひと)らとともに探していたときに、不覚にも神々の領域で、足を踏み入れてはならない禁足地に入ってしまった。
 それに気が付いた地の神々は川人(かわんど)一行を追いかけてきた。川人(かわんど)と安仁(やすひと)は急いで馬を下り、近くの田んぼの中にあった稲束のなかに隠れ、すぐに陰陽道の隠形(おんぎょう)の術を使って姿を消したのだ。

 さすがの地の神々も、隠形の術の効果で川人(かわんど)達を見つけることはできなかったが、『このまま逃げられると思うな、我らは大晦日の夜半に再びお前たちを見つけるからな』と捨て台詞を残して立ち去った。
さて、その問題の大晦日がやってきた。
川人は安仁を嵯峨寺に連れて行き、天井裏に隠れて、悪霊を退ける呪文を静かに唱えだした。真夜中になると何処からともなく異様な風が吹き始め、寺全体が揺れ動きだした。

しかし川人は臆することなくそのまま呪文を唱え続けた。やがて朝が来て、地の神々は何処へか引き上げて行った。
川人は自分の術だからこそ二人は助かったのだ、と安仁に言ったのである。

 

 

宿曜の秘法で朝廷を揺るがせた怪僧道鏡

奈良時代後半から平安時代初期にかけては、日本の宗教界はいわばクロスオーバー状態であった。中国、朝鮮半島経由で入ってきた外来宗教を日本にあった形にうまくリニューアルして、日本独自の宗教として定着させていった時期なのである。
陰陽道はもちろん、古神道、道教、仏教、修験道などが、いろいろな形で混じり合っていった時期ともいえる。
そして、それらをマスターしたスペシャリストがたくさん現れた。その中でも密教が最も人気を博した。
密教といえば仏教の中でも、より神秘的、呪術的な要素が強い。普通は空海が唐に渡り、長安で恵果阿闍梨から直伝に教えられたものを日本に持ち帰ったところから始まっていると思っている人が多い。しかし、実はそれ以前にも密教は、日本に雑密といわれた形で存在していた。
その雑密は宿曜道ともいわれ、陰陽道の占星術や薬草に関する知識なども含まれたもので、どちらかというと呪術性を重視した民族宗教のようなものであった。
手に医療的な術を用いたということで、朝廷においても脚光を浴び始めていたのだ。そんな時期に突然現れたのが怪僧道教であった。

 

道教は河内の豪族と同じ弓削姓を名乗っていたが、実際のところは定かではない。若いころに葛城山中で密教の修業に励み、『宿曜秘法』という呪術を修得したと言われ、いつかその呪術を使い宮廷に進出をはかろう、という野望に燃えていた人物である。

道教の宿曜秘法は、人の運命をも変えることが出来るといわれていた。
呪術により星の運航に働きかけて変化させることで、星の動きに左右される人の運勢をも変えられると主張したのだ。調停人もこのようなご利益宗教的発想にコロリと騙されてしまったようで、道教は宮廷内でみるみるうちに地位を築いていくことになる。

道教の思惑通りにことは運び、称徳天皇(しょうとくてんのう)(女帝)にとり立てられ、一介の僧から、大臣禅師、大政大臣禅師、挙句の果ては法王の座にまで就いてしまったのだ。

 

もはや、道教の野望は皇位を狙うだけとなった。そんな折、称徳天皇が霊夢を見た。それは『八幡神が奉上したいことがあるので、尼の法均(ほうきん)を遣わせ』という内容だったのだ。八幡神が鎮座している場所は、豊前国(ぶぜんこく)の宇佐(現在の大分県宇佐神宮)にあり、そこまではるばる行って、神様にお伺いを聞かなければならなくなったのだ。

八幡神とは、第十五代応神天皇の心霊であるという説や、古代朝鮮半島から来た原始シャーマニズムを基盤とする呪術宗教の神という説もあるが、当時はよく当たる託宣の神として、朝廷も一目も二目も置いていた神様だった。
さて、重要な役目を背負わされた尼法均だったが、自分の健康状態が思わしくなく長旅は無理と思い、代わりに弟で近衛将監の和気清麻呂(わけのきよまろ)を宇佐に行かせてもらうように天皇にお願いする。その願いは聞き入れられた。
和気清麻呂が早速宇佐に旅立とうとしたとき、道教に良い答えを持ってきたお前の地位は安泰だと意味深げなことを言われてしまう。

宇佐に着いた清麻呂は、さっそく本宮の比売神(ひめがみ)(卑弥呼という説もある)の隣にある大尾山に遷座している八幡神に神託を伺った。
すると、長さ三尺、まるで満月のような形象の神様が姿を現し、『我が国始まって以来、君と臣の分は定まっている。臣であるものを君とすることは今もってない、皇位の継承は必ず皇室の血を引く者にせよ、それ以外の者は皇室から追い出せ』という託宣を受けたのである。とてもそんな託宣は道教に言えない。と困った清麻呂の気持ちを見透かしたかのように、神は『お前は帰って、ただ私の言ったことを伝えよ、道教に恨まれることを恐れるな、私が必ずお前を救う』と付け加えたのである。

清麻呂は急いで大和に戻ると八幡神の託宣を称徳天皇に伝えた。ところが天皇はそれを聞いた途端激怒し、その託宣は清麻呂とっ法均が共謀して考えた嘘の託宣だと勝手に決めつけ、なんと二人を配流処分にしてしまったのである。いざというときには助けてくださるという神様は何だったのだろうか。その時の清麻呂の心境はとても複雑だったであろう。

しかし、なぜ称徳天皇はそれほど激怒したのであろうか。それは道教と天皇の間にすでに抜き差しならぬ関係が出来ていたからだ。俗説によれば道教は見事な巨根の持ち主で、女帝はそれによって身も心もすっかり魅了されてしまっていたと言われている。

このままでは、この怪僧に朝廷は乗っ取られてしまうのではないか。と貴族たちは戦々恐々となった。
しかし、しばらくして称徳天皇が病に倒れ崩御してしまう。すると、藤原氏をはじめ、日ごろから道教に反感を持っていた公家たちは、ここぞとばかりに、道教を朝廷から追放した。もはや後ろ盾が無くなってしまった道教は、余生を下野国(しもつけのくに)(栃木県)で過ごしたという。

さて、気の毒な目にあった和気清麻呂だが、藤原百川の(ふじわらももかわ)のバックアップもあって、後に豊前守に任じられ、屈辱を晴らすことが出来たという。

 

 

祟りを恐れ京に遷都した桓武天皇

道教を追い出した朝廷では、再び藤原氏が権力を掌握し、以前から密接な関係であった白壁王(しらかべのおう)(光仁天皇)を擁立させ皇位に就かせた。その白壁王の長子が山部親王(やまべのしんおう)、後の桓武天皇(かんむてんのう)であった。

桓武天皇は即位すると、長岡への遷都計画を推進する。当時の平城京は政治的腐敗や氏族の間の醜い争い、権力闘争に満ち溢れており、違う場所に都を作って気分一新、政治を立て直そうと考えたのだ。しかし、天皇の弟で皇太子でもあった早良親王(さわらしんおう)が、それに猛反対したのだ。

 桓武天皇は、長岡に遷都して良いのかどうか迷った。そのころ、ある奇妙な出来事がおこった。それは難波の宮付近で、体に斑点があるガマガエルが二万匹も現れ、四天王寺の門内に入ってから四散したというものであった。さっそく天皇が陰陽師にその意味を訪ねてみると、その現象は長岡に早く移れという神の意向を現したものだ、という答えが返ってきたのだ。

桓武天皇はすぐに遷都を決意、早速長岡で宮殿の建設を始めさせた。ところが視察に来ていた藤原種継(ふじわらたねつぐ)が矢で暗殺されるという事件が発生した。
犯人は大伴継人(おおとものつぐひと)という者で、この大伴一族は早良親王を担いでいたこともあって、首謀者は親王であるという見方が強まったのだ。

桓武天皇にすれば、いずれ早良親王が自分の後を継いで、皇位に就くものと考えていたが、自分にも血を分けた実の皇子、安殿皇子(あんでんのみこ)がすでにいたこともあって、親王に対する猜疑心はますます強くなっていった。
そしてついに、早良親王は乙国寺に幽閉された後、淡路島への流罪となった。

 

 親王は憤りのあまり断食を敢行、島に着いたときは餓死寸前であったという。
やがて親王は、無念のうちに亡くなった。島では小さな親王の墓がひっそりと建てられているだけであった。
そこから長岡京では次々と異変が起き始めた。皇太后、皇后が相次いで病死。その他にも日照り、地震、暴風、寒冷、洪水、疫病の流行、飢饉など次々と長岡京は災難に見舞われていったのである。

桓武天皇は、このような現象は早良親王をはじめ、皇室に恨みを持って死んだ者たちの祟りと考えた。
そこで早良親王を追尊し、崇道天皇(すどうてんのう)という贈名を与え、墓も立派に立て直させ、陰陽師や僧侶の一団を派遣し、手厚く鎮魂させるように命令した。

後日談がある。いくら朝廷が手厚く鎮魂しても、早良親王の怨霊はそう簡単には鎮まらかったらしい。桓武天皇の後を継いだ平城天皇(へいぜいてんのう)は乱行を積み重ね、これも新王の祟りと世間は噂した。
 そこであの真言密教の開祖空海に白羽の矢がたったのだ。空海は怨霊を鎮めるために、早良親王が幽閉されていた乙国寺に一年間滞在して密教の鎮魂儀礼を施した。さすがの空海もこのときは、かなり心身ともに落ち込んだ様子だったそうだが、このあと、祟りが治まったかどうかははっきりしたことはわかっていない。

 

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