『大日本史料』寛政二年三月八日の記事によれば、晴明に関する記録は下項目の表のようになっている。
慶和元年7月5日(961年8月18日 節刀の本様を献ずる。
天延二年12月3日(975年1月17日 密奏を上がる。
天元元年7月24日(978年8月30日 清明の屋敷に雷が落ちる。
寛和二年(986年) 花山天皇の命によって、那智山の天狗を封じる。
永祚元年(えいそがんねん)2月11日(989年3月20日) 泰山府君祭を行う。
正暦五年5月15日(994年6月26日) 臨時仁王会の日時を勧申(かんじん)する。
長徳元年「ちょうとくがんねん)8月1日(995年8月29日) 天文月奏のこと。
同年10月17日(995年11月12日) 雷雨御卜のことを勧申(かんじん)する。
長徳三年3月21日(997年4月30日) 内膳司御竈神(ないぜんつかさみくうのかみ)の
平野の社殿造立の日時を勧申(かんじん)する。
同年5月24日(997年7月1日) 宣揚殿の御剣行作のことを勧申(かんじん)する。
同年6月22日(997年7月29日) 東三條院に行幸の日時を勧申(かんじん)する。
長保元年11月7日(999年12月17日) 防解火災祭の日時を勧申(かんじん)する。
同2年2月16日(1000年3月24日)法興院行幸の日時を勧申(かんじん)する。
寛弘元年7月14日(1004年8月2日) 五龍祭を行う。
この中で、密奏というのは、天体の動きに異変が起きたとき、陰陽寮が天皇にだけ、その報告をすることだ。このときの奏文は、密封されたまま天皇に渡されることになっていたので、文書を作成した陰陽師と天皇以外の目に触れることはなかった。
西洋占星術のミクロコスモスとマクロコスモスの対応と似た考えが東洋にもあり、天界の動きは地上の天子の動向を反映しているとされて、当時の人々にとっては、国家機密扱いだったのだ。
普通、これは天文博士の役目だから、天延二(975)年には、晴明は天文博士になっていたと思われる。
また、仁王会とは、国家を守護し、災難を福に転じるために、『仁王経』を講じる法会のことである。
通常は、春と秋の二回行われたが、疫病が流行した場合など、臨時に行われることもあった。正徳五年は、西日本から流行り始めた疱瘡(ほうそう)が、都で猛威を振るった年だった。実は、有名な酒呑童子(しゅてんどうじ)の伝説は、このときの疫病の恐怖が元になっているのではないかという説がある。
鬼とは目に見えない疫神だというわけである。
ちなみに勧申(かんじん)とは、『朝廷で諸事の先例や典故、日時や吉凶などを調べて上申すること』(岩波書店『広辞苑』である。
歴や天体の運行を見て、日柄や方角の吉凶を判断することは、宮廷陰陽師の最も重要な仕事の一つだった。たとえ、神事や仏教行事であっても、日取りを決めるのは陰陽師の役目だったのだ。
ところで、上の項目表を見ればわかるように、清明の華々しい活躍は、ほとんどが60代、70代になった晩年に集中している。
前と比べて少し老いたかと思っているご年配の方々は、まだまだ人生これからだ!と思っていただきたい。
清明の生きた時代、貴族社会は大きな転換期を迎えていた。家格というものが確立しつつあり、貴族の官位は世襲化する傾向にあった。それまでのように、努力と運次第で、希望通りのポストに手が届くという訳にはいかなくなっていた。陰陽師のような専門技術者も例外ではなく、晴明や光栄の子孫たちは、代々、親の仕事を引き継いでいる。
おそらく、父の代まで、安倍家は陰陽道や陰陽師とは縁もゆかりもない家だったのではないだろうか。晴明が大舎人だったという『續古事談』(しょうこじだん)の記事が信頼できるとすれば、青年時代の清明は、、父の跡を継いで、平凡な役人としての道を歩もうとしていたようである。
ところが、ある日突然、優れた陰陽師としての資質を見出される。
『清明は術法の物なり。才覚は優長ならずとぞ』という言葉は、彼がもともと学者の家柄の出ではなかったことを示しているように受け取れる。
清明が天文得業生だった四十歳という年齢は、当時の基準からしてもかなり遅いものだ。
例えば清明の師匠にあたる賀茂保憲は、晴明とは四才違いだが、天慶四(941)年には、暦生の身分でありながら、造暦の宣旨(せんし)を賜っている。このとき、保憲はまだ二十五才だったわけだから、たいそうな秀才だったことになる。
また、分野は違うものの、有名な菅原道真が文章得業生になったのは、二十三歳のときだった。普通、学者の家の子は、二十代で文章生の資格を取ったという。文章生は大学寮、天文生は陰陽寮に所属し、役所としての『格』は同じではないが、学生の年齢は似たようなものだったのではないだろうか。
得業生になれるのは、学生の中でも特に成績優秀な者だけだから、晴明が優れた資質に恵まれていたことには、疑いの余地はない。
ただ、四十歳という年齢を考えると、彼が陰陽道を志したのは、役人としての何年か務めたあとの、すでに中年に近い年齢に達してからではなかったかという推理が成り立つ。保憲と清明の年齢が、師弟関係にしては接近しすぎていることも、そう考えれば納得できるのではないだろうか。
伝説の世界の清明とは異なり、史実から推測できる安倍晴明の素顔は、大器晩成型の人に思える。
五十歳になってから学問を志し、精密な日本地図を作り上げた江戸末期の伊能忠敬と同様、中年期を過ぎてから陰陽師として大成した清明には、天才や秀才ではなく、異才という名こそが相応しい。
花山天皇と安倍清明
『古事記』によれば、晴明は俗人ながら、那智で千日の行をした人だという。毎日二時間ずつ滝に打たれ、前世も尊い大峯の行者だったという。
また、花山天皇の前世を見抜いたともいわれている。花山天皇はたびたび頭痛に悩まされ、特に、雨の日はどうにもならないほど症状が悪化して、さまざまに治療を施しても効果はなかった。
そこで、晴明がいうには、天皇の前世は尊い行者であり、大峰山のさる宿で入滅された。前世で徳を積んだために、天子の身に生まれ変わったのだが、その前世の髑髏(どくろ)が、岩の間に落ちて挟まっている。
雨が降ると岩が膨れて、その髑髏を締め付けるため、今生で痛みを感じるのだ。
だから、どんな治療も効き目がない。その髑髏を取り出して広いところに置けば平癒されるだろう。というので、その谷底の場所を教え、人をやって調べさせたところ、清明のいうことに間違いはなかった
。髑髏を取り出した後は頭痛はすっかり治ったという。
花山天皇は出家して法皇となったあと、熊野の那智山で千日の行をしたのだが、この時、天狗が様々に修行の邪魔をしたため、晴明をお召しになった。
晴明は狩籠の岩屋というところに、多くの魔性のものを祭り置いた。
那智の行者が修行を怠ったときは、この天狗どもが起こるので恐ろしかった。と『源平盛衰記』にある。
千日の行までしたのだから、この花山法皇という人は、さぞ立派な法師になったのかと思えば、どうもそうではなかったらしい。
もともと、女のことが原因で、衝動的に出家してしまっただけであって、女癖の悪さは最後まで変わらなかったらしい。
藤原道長の甥にあたる伊周(これちか)の失脚にも、花山法皇が一枚かんでいる。
亡くなった太政大臣藤原為光には、何人かの娘があり、伊周(これちか)はその中の三の君に通っていた。
花山法皇が、その妹の四の君に通い始めたのを、伊周はてっきり自分の恋人を横取りされたものと誤解し、弟の隆家に相談した。
隆家は兄の恋敵をこらしめてやろうとばかりに、月の明るい夜、腕の立つ従者数人を引き連れて、法皇を待ち伏せした。
法皇が女の家から馬に乗って帰るところを脅かし、諦めさせようという腹積もりだったのだが、従者の射た矢は、法皇の袖を貫いた。
事の起こりが女のことだけに、法皇としてもどうも外聞が悪いので、沈黙を守っていた。だが、悪い噂というのは、隠してはおけないもので、この事件はすぐに誰もが知るところとなった。
これが因(もと)で、伊周、隆家の兄弟は左遷され、数年後に赦されたものの、政治的には完全に息の根を止められてしまった。
やはり、生来の軽はずみというのは、数年修業をしたぐらいでは、矯正出来ないもののようである。
天狗が修業の邪魔をしたと云うのも、実のところは、花山法皇自身の雑念のせいだったのではないだろうか。
いくら、やんごとなきお方とはいえ、こういう人物のお守りをさせられたのでは、清明の苦労が思いやられる。
もっとも、花山法皇が藤原兼家一家の陰謀によって出家させられたのは、まだ、二十歳のときのことだったのだから、髪を下しても、遊び癖がやめられなかったのは、無理もなかったかもしれない。
清明と藤原氏
安倍晴明は藤原氏による摂関政治が隆盛を極めた時代に生きていた。
自分の娘を入内させて、男の子を産ませ、その子を天皇の位に就けて、外戚として権力を握る。というやり方は、政治権力の在り方として正統的なものではない。だが、当時の藤原一族にとっては、それが最も好ましいものだったのだ。
藤というのは蔓性の植物である。他の植物に絡みつかなければ、生きてゆくことができない。
つまり、天皇家という大樹に絡みついて権勢をふるう藤原氏の姿は、まさに藤そのものであり、だからこそ、彼らは自ら『藤』原と名乗ったのではないか。という説がある。
この説の当否はともかく、藤原氏の権力が、実質的には傀儡(かいらい)にすぎない天皇の権威によって支えられていたのは確かだ。
天皇家と藤原氏の関係は、大化の改新の時代からはじまっていたわけだが、栄枯盛衰(えいこせいすい)は世の習いで、無論、藤原氏とてその例外ではなかった。
御堂関白(みどうかんぱく)と呼ばれ、栄耀栄華(えいよくえいか)の頂点に立った藤原道長の死後、藤原氏の権勢は急速に衰え、やがて、世は院政時代から武家時代へ移っていく。
娘を次々と内入させて息子を産ませ、一代の幸運児と思われた道長でさえ、晩年はその自慢の娘たちの死が相次ぎ、決して幸福ではなかったに違いない。
もっとも、道長の死は、本書の主人公である安倍晴明が没してから、二十年以上も後のことである。康保三(966)年生まれの道長は、安倍晴明より四十五歳年下だから、二人の間の交流は、道長が二十代から三十代にかけての青年時代、ようやく権力への登りはじめようかという頃だった。
道長が書き残した『御堂関白日記』には、清明の名前が何度か登場する。
永作元年2月11日、(989年3月20日)には、道長の姉である皇太后詮子(こうたいごうせんし)のために泰山府君祭を行っている。
さらに長徳三年6月17日(997年7月24日)には、やはり詮子の行幸の日時を6月22日甲寅の日の巳の時と勘申し、当日には、詮子のために反閇(へんぱい)を行ったことなどが記されている。