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出雲大社と伊勢神宮

出雲大社と伊勢神宮

出雲大社

古代より杵築大社(きずきたいしゃ、きずきのおおやしろ)と呼ばれていたが、1871年明治4年)に出雲大社と改称した。正式名称は出雲大社サイトには「いづもおおやしろ[4]、出雲大社東京分祠サイトには「いずもおおやしろ」とある[5](前者は新旧仮名遣いが混在、後者は新仮名遣い)。

一般的には「いづもたいしゃ」と読まれており[4]、複数の辞書・事典でも見出しの読みを「いずもたいしゃ」としている[6]


島根県大百科事典編集委員会『島根県大百科事典』では出雲大社の項目は正式名称の「いずもおおやしろ」として掲載する一方[1]、出雲大社本殿(いずもたいしゃほんでん)など登録文化財の項目については登録名に従った読みで掲載している[7]

10世紀から12世紀頃までの出雲大社の本殿の高さは地上48メートルでした。ビルで言えば15階ぐらい、東大寺の大仏よりも高かったそうです。

ある文書によれば、高床から本殿までの階段の高さは109メートルとか。さらに古い伝説によると、地上97メートルに本殿があったそうです。

その高さのせいか本殿は少なくとも1036年、1061年、1141年、に倒壊しています。凄い惨事でしたでしょう。
そのたびに建て替えられましたが、1228年以降、本殿の全高は現在の24メートルになりました。

 

出雲大社の創建については、日本神話などにその伝承が語られている。以下はその主なものである。

  • 大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造った。(『古事記』)
  • 高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴命に、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命に祀らせよう」と述べた。(『日本書紀』)
  • 所造天下大神(=大国主神)の宮を奉る為、皇神らが集って宮を築いた。(『出雲国風土記』出雲郡杵築郷)
  • 神魂命が「天日栖宮(あめのひすみのみや)」を高天原の宮の尺度をもって、所造天下大神の宮として造れ」と述べた。(『出雲国風土記楯縫郡
  • 崇神天皇60年7月、天皇が「武日照命(『日本書紀』による。『古事記』では建比良鳥命天穂日命の子)とされる)が天から持って来た神宝が出雲大社に納められているから、それを見たい」と言って献上を命じ、武諸隅(タケモロスミ)を遣わしたところ、飯入根(いいいりね)が、当時の当主で兄の出雲振根に無断で出雲の神宝を献上。出雲振根は飯入根を謀殺するが、朝廷に誅殺されている。(『日本書紀』)
  • 垂仁天皇皇子本牟智和気(ほむちわけ)は生まれながらにであった。占いによってそれは出雲の大神の祟りであることが分かり、曙立王と菟上王を連れて出雲に遣わして大神を拝ませると、本牟智和気はしゃべれるようになった。奏上をうけた天皇は大変喜び、菟上王を再び出雲に遣わして、「神宮」を造らせた。(『古事記』)
  • 659年斉明天皇5年)、出雲国造に命じて「神之宮」を修造させた。(『日本書紀』)[注 1]

以上のように、伝承の内容や大社の呼び名は様々である。共通して言えることは、天津神(または天皇)の命によって、国津神である大国主神の宮が建てられたということであり、その創建が単なる在地の信仰によるものではなく、古代における国家的な事業として行われたものであることがうかがえる。

また、出雲大社の社伝においては、垂仁天皇の時が第1回、斉明天皇の時が第2回の造営とされている。

 

国譲りをめぐる骨肉の争い伝説
大穴牟遅神(おおあなのむじのかみ、大国主神)は、須佐之男命の七代目にあたる血筋で、八十神(やそがみ)と呼ばれる多くの兄たちがいました。

八十神に迫害され続けた大穴牟遅神は、死者の国(根の国)へ逃げて須佐之男命に出会い、さまざまな試練の末に、須佐之男命の娘である須世理毘売命(すせりびめのみこと)と、神宝である太刀や弓矢を得ます。

そして地上に戻り、須佐之男命の助言通り太刀と弓矢で八十神を退治し出雲の国を治め、他の神と協力しつつ出雲の国つくりを精力的に行いました。

 

その頃になって天照大御神が、建御雷神(たけみかづらのかみ)と経津主神(ふつのぬしのかみ)を使者にして、国を譲るようにと申し入れてきました。
大国主神は自分の息子の同意を条件に、国譲りを受け入れました。
事代主神(ことしろぬしのかみ)は同意しましたが、もうひとりの息子の建御名方神(たけみなかたのかみ)は反抗し、建御雷神に勝負を挑みました。
しかし、あえなく敗れ、諏訪の地まで逃げたあとでとらえられたのでした。

(諏訪大社の祭神)

 

こうして出雲の国譲りは行われましたが、その条件として大穴牟遅神が出したのが、天照大御神と同じぐらい立派な神殿を創ることだったのです。
それが出雲大社で、大穴牟遅神はその後、この大神殿にこもって静かに暮らしたと伝えられています。

 

 

伊勢神宮(いせじんぐう)は、三重県伊勢市にある神社。

正式名称は地名を冠しない「神宮」(じんぐう)であり[注釈 1]、他の神宮と区別するために伊勢神宮と通称される。「伊勢の神宮」[1]、親しみを込めて「お伊勢さん」「大神宮さん」[2]とも称される。神社本庁の本宗(ほんそう。全ての神社の上に立つ神社)である。

二十二社の中の更に上七社の1社[注釈 2]。また、神階が授与されたことのない神社の一つ[注釈 3]。古代においては宇佐神宮[3]、中世においては石清水八幡宮と共に二所宗廟のひとつとされました[4]
明治時代から太平洋戦争前までの近代社格制度においては、全ての神社の上に位置する神社として社格の対象外とされました。

 

お伊勢参りで有名な伊勢神宮。この名は実は通称で、正式には単に”神宮”と呼ばれます。神宮といえば伊勢神宮。
特徴は天皇が主宰者という点で、古代は、個人参拝は禁止でした。皇室や国家にかかわる祈願だけがなされていました。その伊勢神宮には、二つの正宮があります。

内宮(皇大神宮)と外宮(豊受大神宮)です。
内宮では、天照大御神と、そのご神体である八咫鏡(やたのかがみ、三種の神器のひとつ)をまつり、外宮では、天照大御神の食事の世話をする豊受大神宮を祀っております。
また、内宮では、天手力男命(あめのたじからおのみこと)と万幡豊秋津姫命(よろずはたとよあきつひめのみこと)も一緒に祀っています。

実は、伊勢神宮は、この他に数多くの別宮、摂社、末社、所管社からなっています。その総数は百二十五。これらすべてを合わせて伊勢神宮なのです。

 

伊勢神宮と天照大御神をめぐる神話

かつて、八咫鏡などは宮中にあって、天皇が自ら祭祀を行っていました。あるとき、国に流行り病が起こりました。
宮中の八咫鏡と天叢雲剣(あめのむらくもりつるぎ)を別の場所でまつれば、病はしずまるだろう八咫鏡という神託がくだったため、天皇は大和国の笠縫邑(かさぬいのむら)に神籬(ひもろぎ)を建てて、自分の代わりに皇女に祭祀を行わせることにしました。

垂仁天皇の時代に、倭姫命(やまとひめのみこと)は、八咫鏡と天叢雲剣を祀るのに相応しい地を探し求めていました。
各地をめぐり、ようやく伊勢の五十鈴川の上流に行き着いたところ、天照大御神からその地が良いとの託宣(お告げ)がくだり、その地に建てられたのが、現在の内宮です。

内宮の祭神である天照大御神には、こんな神話があります。
天照大御神は伊邪那岐神から生まれた最後の三柱のひとりです。


伊邪那岐神が左目を洗うと天照大御神が生まれ、右目を洗うと月読命(つくよみのみこと)が生まれ、鼻を洗うと須佐之男命が生まれました。
そして、天照大御神は高天原(たかまがはら)を月読命は夜の国を、須佐之男命は海を統治したのでした。

その天照大御神が葦原中国(あしはらのなかつくに)に天孫降臨した瓊瓊杵命(ににぎのみこと)に授けたのが、ご神体の、八咫鏡をはじめとする三種の神器なのです。

 

神話と創祀[編集]

天孫・邇邇芸命が降臨した(天孫降臨)際、天照大御神は三種の神器を授け、その一つ八咫鏡に「吾が児、此の宝鏡を視まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。(『日本書紀』)」として天照大御神自身の神霊を込めたとされる。この鏡は神武天皇に伝えられ、以後、代々の天皇の側に置かれ、天皇自らが観察していた。八咫鏡は第10代崇神天皇の治世に大和笠縫邑に移され、皇女豊鍬入姫がこれを祀ることとされた。

崇神天皇5年、疫病が流行り、多くの人民が死に絶えた。

崇神天皇6年、疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた天照大御神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移した。 天照大神を豊鍬入姫命に託し、笠縫邑に祀らせ、その後、各地を移動した。

垂仁天皇25年に現在の伊勢神宮内宮に御鎮座した。(詳細記事:元伊勢)倭大国魂神を渟名城入媛命に託し、長岡岬[注釈 4]に祀らせたが(現在の大和神社の初め)、媛は身体が痩せ細って祀ることが出来なかった。

『日本書紀』垂仁天皇25年3月の条に、「倭姫命、菟田(うだ)の篠幡(ささはた)に祀り、更に還りて近江国に入りて、東の美濃を廻りて、伊勢国に至る。」とあり、皇女倭姫命が天照大御神の神魂(すなわち八咫鏡)を鎮座させる地を求め旅をしたと記されているのが、内宮起源説話である(元伊勢伝承)。この話は崇神天皇6年の条から続き、『古事記』には崇神天皇記と垂仁天皇記の分注に伊勢大神の宮を祀ったとのみ記されている。移動中に一時的に鎮座された場所は元伊勢と呼ばれている。

なお、外宮は平安初期の『止由気神宮儀式帳(とゆけじんぐうぎしきちょう)』[注釈 5]によれば、雄略天皇22年7月に丹波国(後に丹後国として分割)の比沼真奈井原(まないはら)から、伊勢山田原へ遷座したことが起源と伝える。

 

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