氣の施術師だからこそわかる氣と心、健康的な人生を過ごしていくために大切なこと。少しずつお話しています。
パワースポット・疑問処 神社の歴史

パワースポット・疑問処 神社の歴史

パワースポットに行ったのでけれど、本当にパワーは貰えているのかと心配になった人いませんか?

私はよく聞かれるのですよね。 これはちゃんと貰えているのです。
『パワースポットに行っても、私は何も感じなかった。』という人もいらっしゃいますが、大丈夫です。
感じられる方は直ぐにでも分かるのですが、感じられない方も安心してください。
目にはは見えない力なので実感は無いかも知れませんが、パワ=をもったスポットでは、その場所にいるだけで確実にエネルギーの影響を受けているので安心してください。エネルギーは八万四千の毛口から入ってくるのかも知れません。お寺でお経なども挙げていただくと、そう言われます。
パワースポットに行って、心身ともに清められ、気持ちが清々しく感じられる人も多いと思いますよ。

 

できるだけ多くのエネルギーを授かりたいからといって、多くのパワースポットをめぐろうとしてもいけません。
友人にも旅行に行き、近くのパワースポットをめぐりまくった人もいましたが、その日に熱を出してしまいました。栄養を取りすぎたら毒になってしまうと云いますが、パワーも自分の容量オーバーになってしまうと体に毒なので欲張らないようにしましょう。

 

パワーを貰いやすい食べ物はあるか分りますか?
それは新鮮なサラダや生のフルーツなんかが良いですね。みずみずしいお野菜やフルーツは体に活力を与えます。
野菜やフルーツは、パワーの源である『太陽』と『水分』と『大地』のエネルギ=が詰まっている食べ物なんですよね。体にも良いです。
サラダが食べられないときや、生のフルーツが用意できない場合でも、野菜ジュースやフルーツジュースなども同様の効果が得られるのでおすすめですよ。

 

パワーを貰うための儀式ってありますの?
神社やお寺では参拝マナーがありますが、『パワーをもらう』ということには儀式は全くありません。
強いて言えば、その場所でリラックスして休むことで、深呼吸などをすることだと思います。深呼吸によってリラックスできれば、十分パワーを感じられる筈です。
パワースポットでは、気楽に自然体で、自分らしくいられることが大事となります。

 

パワーをもらうために持っていった方が良いものってあるのですか?
あります。
それは『水』なんです。気体、液体、個体と姿を変える水は、環境の影響を受けやすい物質なのです。
なので、水はその場所のパワーも吸収しやすく、パワーを宿りやすいのです。
自分のお気に入りの水を持って行くのも良いですし、現地の水を飲んだり、購入するのもOKなんです。
その場所のエネルギーを十分に含んだ水を飲めば、体の中にも力を染み込ませることができるのですよ。

 

パワースポットのパワーがたくさん入っている石などを持ち帰って良いのですか?
これは止めたほうが良いです。
基本的にパワースポットにある自然のものは持ち帰らないほうが良いです。
特に石などの念がこもりやすいものほど要注意してください。(市販されているグッズなどはOKです。)なぜなら、石など念がこもりやすいものは、土地が変わるとエネルギーも変わってしまうのです。悪念が入っていることもありますから気をつけないといけません。
また、石と持ち帰った土地の相性が悪いと、合わなかった場合はマイナスのエネルギーに変わってしまう恐れがあるのです。

 

でも、よくパワースポットを携帯カメラに待受などにしている人がいるけど、良いの?意味あんの?
これは良いのです。実はこれはかなり効果的なんですよ!
パワースポットへ行って、自然のものなど、石などを持ち帰ってはいけません。などと前項で書きましたが、パワースポットから何かを持ち帰るのは本当によくありません。
その代わりに携帯カメラやデジカメで撮影しておくと、そのパワーを維持することが出来るのです。まさに科学と非科学コラボレーションといえますね。

 

パワーをキープする、継続させることはできるのでしょうか?
前項で『水がよい』とお伝えしましたが、お風呂に入ることでもパワーをキープできます。水で浄化されるのです。身体を清めるのに滝行というのもありましたよね。滝行は水圧もあり、大変な行ですが、浄めには効果があります。
パワースポットに行った日に半身浴をしたり、シャワーを浴びたりするのも良いでしょう。
手浴はパワーを吸収しやすいので、自分の好きな香りを入れたお湯に手を浸しても効果があります。
足浴は全身を暖めるだけではなく、『邪をぬく』ともいわれておりますので、悪い気をもらってしまったとくは、是非お試しください。

 

御守りはいろいろなところでいくつか買ってもいいの?
これもよく聞かれますが、人によっては御守り同士がけんかするので良くないと話していた方がいると相談されました。
そういう考えで言われたことを守っている方はそれでよいと思うのですが、気の関係で私から観ると、御守り同士では喧嘩しません。八百万の神々(やおよろずのかみがみ)ともいうではありませんか。

求めたかったら、幾つか求めても大丈夫です。
しかし、一生モノではありませんので、一年間ぐらいで、御守りの効能が失われるぐらいにお考え下さい。使っていた御守りは、事故にあったが救われたとか、手術されたとか、重大な事があったときには、御守も万が一、お力尽きてしまうと困りますので、感謝で祈念された新しい御守りを身に付けるようにお考え下さい。

 

 パワースポットといえば、エネルギーの集まっている所なので、自然では、エネルギーがあるところ、登山などで行く山や海、大きな木がある屋久島、新宿御苑や日比谷公園などの大きな公園や建造物では教会やお寺、神社などが人気があり、皆さんが行きますね。

 神社は御利益もありますので、求めて行く方も多いです。有名な神社だけがパワーがあるわけではありませんので、謙虚な気持ちで近くの神社に参拝させていただくときもお力をいただけます。
まずは、神社の昔を知っていたほうが、近くの神社の参拝も楽しくなり、旅行のときなど散策が出来ますので、神社の歴史を記しておきます。

 

神社の歴史

縄文時代から古墳時代紀元前に生まれ、近代に確立された古くて新しい宗教施設です。(縄文時代~古墳時代)
いうまでもなく、神社は神道における宗教施設です。その原型は紀元前から存在したと言われ、事実、古代の遺跡からは、現代の神社のご神体にあたる『神籬(ひもろぎ)』などの祭具がよく出土しています。
だからといって、神道が古来よりずっと日本で信仰されてきた宗教だとするのは。正解ではありません。神道という言葉が生まれたのは、六世紀に入ってからのことです。さらにその語が一般に定着するまでには、明治時代まで待たなくてはなりません。
ましてや神道が宗教として定着されるようになったのは、戦後のことなんです。神道は、日本の長い歴史から見れば、ごく最近登場したに過ぎないのです。
つまり神社は、神道という宗教に付随する施設として生まれたわけではありませんでした。神道のほうが、後から生まれたと言ってもよいのです。

 

弥生時代に生まれた少国家群が、大和朝廷の巨大勢力のもとに統一化されて行ったのが、(三世紀~七世紀頃)古墳時代です。
その権力の頂点に君臨した権力者たちは、自ら神々の末裔と称し、それを権威のよりどころとしました。
これ以後、神様への信仰は権力と結びつき、神事や祭事は、政治的な意味合いを強めていくことになります。
権力者たちは、民衆の代表として、ことあるごとに神様にお伺いをたて、そのお告げに従って政策を決定しました。
儀式に使われる祭壇や祭具もしだいに豪華になり、おごそかな雰囲気を演出するようになっていきます。現在の神社で用いられる祭具の多くは、その過程で生まれたものでしょう。

このように、神事、祭事と密着した政治システムを『神権政治』と呼びました。政治が『祭りごと』と呼ばれるのも、政治が祭事と同義だったからなのです。

 

古墳時代も末期になると、権力者は天皇となり、天皇を中心とする倭(わ)という国家が成立しました。神々と天皇家との関係を説明する神話が、『古事記』に纒められたのもこの頃です。これらをもって、神社が臨時の催事場から次なる段階へと進化する下準備はほぼ整ったのでした。

 

仏教寺院との対決と和解、そして共存共栄へ

朝廷による統治の基盤が固まったころ、中国から仏教が伝来してきました。仏教には寺院という建築物がつきものです。その華麗かつ壮大な建築様式は人々を魅了し、仏教はまたたく間に、多くの信者を獲得していきました。
その風潮に、先祖代々神事や祭事を司ってきた人々は、『このままでは古来の神々はないがしろにされてしまう』と危機感をつのらせました。そこで彼らは、庶民の目を神々に向け直すため、仏教寺院を真似て、神社にも立派な建築物を建てることにしました。
こうして誕生したのが、社殿です。ここに至って、ついに神社は常設の施設になったのでした。
さらに、神社の担い手たちは、ライバルである仏教寺院との差別化をはかって、社殿ならではの建築様式を考案するなど、工夫を重ねてゆきました。

仏教伝来時、朝廷には二つの派閥がありました。仏教を信奉する蘇我氏と、仏教を毛嫌いする物部氏です。両者は激しく対立しておりましたが、この争いで大きな役割を果たしたのが、かの聖徳太子でした。彼もまた強く仏教に惹かれていったので、蘇我氏に味方して物部氏と戦い、これを失脚に追い込んだのです。
やがて推古天皇の摂政(せっしゅう)となった聖徳太子は、仏教を保護し、広める政策を打ち出しました。
ここから、飛鳥時代(七世紀~八世紀ごろ)が幕を開けます。推古天皇も、もちろん聖徳太子の政策を認めました。これこそが、仏教が日本に根を下ろすきっかけとなったのです。

しかし、天皇家としては、古来の神々をおろそかにするわけには行きませんでした。なぜなら天皇家はその神々の末裔(まつえい)であり、神様を否定することは、自らの権威をも否定することになるからです。
そこで以後の歴代天皇は、神と仏の両方を崇(あが)めるという態度を維持しました。
このころ纒められた『日本書紀』は、これを『天皇、仏教を信じ、神道を尊び給う』との一文で記録しております。これが神道という言葉が歴史に登場した最初のシーンでした。
こうして天皇の仲介で神道と仏教は和解し、『神仏習合』がはじまります。

 

奈良時代(710年~794年ごろ)に入ると、神仏習合の傾向はますます強まっていきます。各地の神社は、積極的に仏教の僧侶を招いて、境内にお寺を建てることを許可しました。
結果、神社の中の寺院、すなわち神宮寺が、あちこちに続々と建てられていきました。
逆にあらたな寺院が建つときには、その寺院の『鎮守(守護神)』として、神社を併設するといった習慣も、完全に定着していきます。

その背後には、仏教が当時の最先端の科学や技術とセットになっていたという事情があります。仏教の僧侶は、そうした新知識を豊富に身につけたインテリでした。
神社の関係者たちは、彼らを優遇して取り込むことで、その新知識を神社の建築や運営にも応用しようと考えた訳です。

神道はそもそも、神様は大勢いると考える多神教でした。そのうえ、自然物だろうが人間だろうが、万物が神様になりうるとしています。神様は、仏の化身だと考える『本地垂迹説』(ほんちすいしゃくせつ)や、仏もまた神様だと考える『反本地垂迹説』は、そんな神道の基本思想と矛盾しません。だからこそ、神様と仏を同一とするこれらの説は、庶民にも抵抗なく受け入れられ、たとえば、天照大神と大日如来とをイコールで結ぶといった見解も、広く一般化されていったのでした。

 

ところで、飛鳥時代から奈良時代にかけて渡来した外国産の宗教は、仏教だけではありません。ほぼ同時期に、道教や儒教も来日していました。
とりわけ道教は、かなり古くから日本でも受け入れられ、神道にも大きな影響をもたらしました。その影響から生まれたのが『陰陽道』なのです。
より正確に言えば、陰陽道の基礎は、道教を通じて日本に持ち込まれました。古代中国の自然哲学で『陰陽五行思想』でした。これは自然界の万物は陰と陽の両面を持ち、同時に木・火・土・金・水という五つの元素からなると説く思想で、複雑に絡んだその構成を読み解くことで、森羅万象を説明します。さらに陰陽道には、現象を操作するという技能も含まれていたので、朝廷はこれを重んじ、『陰陽寮』という専門機関を設けました。この機関に属する『陰陽師』たちは、呪術、占術で、政権を支える存在になっていきます。

特に彼らの活躍が華々しかったのは、安倍晴明などの高名な陰陽師が登場する平安時代(794~1185年ごろ)でした。
現代の神社でみられる儀式や習慣のなかには、この時期の陰陽師によって確立されたものが、少なくありません。子供の成長を祝う七五三や、護符の領布などが、その一例です。

 

伝記や小説などに描かれれている陰陽師は、おそらく実際の陰陽師とはかけ離れた存在だったのでしょう。小説の陰陽師が退治するような悪霊や怨霊が、平安期の人々にとって極めてリアルな存在だったのは、間違いありません。
現にこの時代には、権力に滅ぼされた人々が、死後に怨霊となってたたるという事例が、数多く起こりました。その度に権力者は、彼らを神様として神社に祀り祟りを鎮めたものです。菅原道真(すがわらみちざね)を祀る天満宮や、平将門(たいらまさかど)を祀る御首神社(みくびじんじゃ)などは、その代表的な例です。
このように、名のある人物が死後に神さまとなるパターンは、武士が歴史の主役となり、戦が頻発した鎌倉時代(1185~1333年ごろ)以後、増加の一途をたどります。
たとえば、白旗神社の御祭神は、鎌倉幕府の祖である源頼朝(みなもとのよりとも)、その分社のなかには、頼朝に殺された弟の義経が、いっしょに祀られていたりもします。この兄弟はお互いに納得しているのかは解らないです。
戦国から安土桃山時代(1469~1590年ごろ)になると、有名な武将たちは当たり前のように神になりました。武田信玄は武田神社、上杉謙信は上杉神社、織田信長は建勲神社(たけいさおじんじゃ)、豊臣秀吉は、豊国神社に祀られております。

 

徳川家康が日光東照宮に祀られたのは、彼自身の遺言でもあります。ただし遺言では、神社はごく小さなもので良い、とされていました。
それが壮麗たる大建築になったのは、孫である徳川家光の代に、大増築が行われたためです。これには、徳川幕府の威光を世間にアピールするねらいもありました。

その家光が三代将軍の座についたこの頃から、江戸時代(1603~1864年ごろ)が本格的にスタートし日本は長い太平の時代を迎えます。
この時代の神社にまつわるトピックスとしては、数十年おきにまき起こった『伊勢参り』の大ブームが挙げられます。
ブームのたびに伊勢神宮には数百万人ほどの参拝者が押し寄せ訪れました。
直接のきっかけは、御師(おんし)『今でいう旅行代理店』たちによる熱心な布教活動でしたが、庶民の暮らしが安定し、交通網が整備されて旅行が簡単になったことなども、ブームを後押ししたと考えられます。

実際、庶民にとっての伊勢参りは、日々の労働から解放されて物見遊山を楽しむ、観光旅行といった面がありました。
ただし、その楽しみを享受できたのは、中流以上の庶民でした。貧乏人にとっては夢でした。
いわば伊勢参りは、高度成長期における、ハワイ旅行のようなものだったのでしょう。

 

仏教と決別し、国教になるが、敗戦後は一宗教法人に

聖徳太子の時代から千年以上続いた神仏習合の風習は、明治維新とともに終焉を迎えました。『神仏判然令』の布教をきっかけに、『廃仏毀釈』(はいぶつきしゃく)という過激な仏教排斥運動(ぶっきょうはいせきうんどう)が起こり、仏教の地位は大きく下落しました。それと反比例するように、神道は、日本国民全員が信奉すべき、国教へと地位を上げていったのです。
もちろん、太平の江戸時代にも、古代の神々への信奉は、庶民の暮らしの中に息づいておりました。しかし、天皇を君主とする神権政治の復活をめざす、明治政府にとっては、たんなる信仰だけでは不十分です。政府は古代神話が語る皇室の権威の正当性を強調し、特に皇室の先祖である皇祖神への信奉を奨励したのです。
『日本書紀』に登場する『神道』という言葉が、さかんに口にされるようになり、一般に定着したのも、まさにこの明治期のことです。

 

『信教の自由』を明記し、国民が仏教を信じようが、それだけで罰せられることはなかった明治憲法。しかし一方で、明治政府が神道の信奉を国民に強要したのも事実です。

たとえば、一神教であるキリスト教は、唯一神の子はイエスだけだとします。天皇を神さまの末裔と認めれば、その教義と矛盾します。天皇や皇祖神をあがめよという政府の方針は、キリスト教徒にとっては事実上、自由な信仰を禁じられたも同然でした。
しかし政府は、『神道は宗教ではない』という論理で彼らの反発を抑え、さらに『敬神の義務化』政策を推し進めていきました。
その政府の一貫として、制定されたのが、『近代社格制度』です。
平安時代の『延喜式神名帳』編纂以来、約千年ぶりに全国の神社が調査され、神社の格付けが行われたのでした。天皇家とゆかりの深い『神宮』が、もっとも社格が高いとされ、その他の神社は、『官社』と『諸社』に分類されました。
そして官社に認定された神社は、国の保護下に置かれて管理・運営されたのでした。

国や政治と密着したこの時代の神道は、のちに『国家神道』と名付けられ、それ以前の神道や現在の神道とは全くの別ものとされます。

 

明治から大正、昭和へと引き継がれ、約八十年に渡って続いた国家神道の時代が幕を下ろしたのは、太平洋戦争に敗れてからでした。
終戦直後から約七年間、日本はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領下に置かれました。このGHQが、政府分離の観点から、国家による神社の管理を禁じる『神道指令』を出したのです。
『神道は宗教ではない』という明治以来の伝統的な解釈は、詭弁として一蹴されました。
神社がキリスト教会などと同等の宗教施設になったのは、このときからといえます。

 

宗教法人に名前を変えて、現在まで生き残る
実は、神道が宗教であるかどうかについては、今なお、議論が分かれています。

しかし本音では納得していなくても、敗戦当時はとにかくその指示を受け入れるほか、神社に生き残りの道はありませんでした。

このとき、国に代わって全国の神社を束ねる組織として発足したのが、『神社本庁』です。
庁とはいっても、神社本庁はあくまで一宗教法人であります。
現在の神社の大半は、この組織に所属していますが、所属せずに独立した宗教法人(単立宗教法人)の立場をとっている神社も、少なからずあります。
有名な例でいえば、伏見稲荷神社、日光東照宮、明治神宮です。靖国神社も単立の宗教法人に該当します。

 

神さまになったカリスマ

人を祀る神社は、明治時代における一種のブームだったのです。幕末の動乱期に非業の死を遂げた英雄たちの関係者がまだ存命中だったため、故人の功績をたたえようという運動が起こりやすかったのでしょう。
 たとえば、山口県(旧長州藩)には、吉田松陰を祀っている松陰神社があります。高知県(旧土佐藩)には、坂本竜馬を祀る坂本神社があり、鹿児島県(旧薩摩藩)には、西郷隆盛を祀る南州神社があります。

靖国神社もそんな流れから生まれた一社です。明治維新の生き残り、大村益次郎(おおむらますじろう)らの提唱で、高杉普作ら維新で没した志士たちを祀ったのがその起源でした。のちに大村自身も暗殺に倒れ、祭神に加わったのです。

全国各地の東郷神社と乃木神社は、日露戦争の英雄・東郷平八郎海軍元帥と、乃木希典(のじまさすけ)陸軍大将を祀ってあります。
彼らは存命中から神格化されており、自分を祀る神社の建設計画を聞いた東郷が、『わしはまだ生きておる』と激怒したという逸話も残っております。

 

(パワースポット 神社に行こう 引用 参照)

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